New Apostolic Church Japan

「苦難」—「希望」。「孤独」—「仲間」。一年のうちで聖金曜日とイースターの間ほど、この両極がはっきりする時期はほとんどありません。そして、270万余の生命を奪ったパンデミックに支配されてから、2年目を迎えました。

哲学者カール・ヤスパースは「希望喪失はすでに敗北の先取りである」と言っています。確かに、結局は、今より良い時が来てほしいと願うものです。どんなにつらくても、確信が前進するための原動力になります。聖金曜日とイースターを記念する際の主体的存在である、イエス・キリストは、常に希望を与えてくださいました。新約聖書全体の核心の一つを伝える言葉は、「三日後に…」であります。

さて、イエス様からもたらされた希望を、現代の私たちが自分のものとするためには、どうすればよいでしょうか。実際、聖金曜日に私たちは、十字架に向かわれるイエス様について行こうとの勧めをいただいています。イエス様は私たちが犯した罪を、ご自分が背負い、私たちが生きるためにご自分が死ぬことを是とされました。キリスト者である私たちに課せられた使命は、救い主イエス・キリストとつながり、キリストから引き離す可能性のあるすべてのものから離れることです。

一見するとこれは厳しいと思うかもしれませんが、このことについて集中して考えようとしない人にとっては、厳しいです。復活劇はまだ完結しません。一日目と二日目の後に三日目がやって来ます。そしてこの三日目に、キリスト者の生活に、大きな希望がもたらされました。墓はからになりました。イースターは神様が万能のお方であることを証明しています。キリスト教徒にとって、復活を希望することは、信仰の要です。キリスト教における大きな奇跡の一つであり、ますます理性が先行するこの世と対極の立場を先鋭化させています。言うまでもなく、このような信仰の秘義は、より深く考えるにふさわしいものです。

イエスが言われた「私は…である」

聖金曜日とイースターに続く礼拝では、主が仰せになった「私は…である」という一連の言葉について考察します。イエス様はご自分を紹介し、ご自身が何者なのか、何をなさろうとしているのかをお述べになっています。イエス様の言われた一つ一つが、自己啓示、自己紹介になっています。特にヨハネによる福音書ではこのことが強調されていて、他の福音書を合わせた数より多い24か所にわたっています。これらはある意味で、主ご自身の証しのように、御子が言われた文字通りの事柄と同等の価値があります。これほど信ぴょう性があるものはないでしょう。

これには二つの要素があります。イエス様は教養のあるなし、子供と大人、信徒と求道者にかかわらず、聞き手すべてがわかるような言葉に基づいて、ご自分を証しされたのです。

  • 「私は羊の門。」第二日曜日のテーマです。この門のたとえは、誰でもある程度ご存じでしょう。門が開くと、新たな空間が広がっていて、道が続きます。視野が広くなります。考え方が変わります。イエス様はご自分を「羊の門である」と言われました。これは注目すべきことです。なぜなら牧者としての役割があることを表明されたからです。羊飼いは自分の羊を守り、安全な場所へ連れて行きます。確かに、かつて羊飼いは自分の羊のために命さえ犠牲にし、自らの血で彼らを守りました。
  • 「私はまことのぶどうの木。」第三日曜日のテーマです。説教は、神様との緊密かつ健全な関係についてです。枝は木がなければ存在しません。枝—すなわち弟子たち—とは、信仰という萌芽です。味わい深く、成熟した信仰の表れです。
  • 「私は道であり、真理であり、命である。」四月最終日曜日の説教テーマです。イエス様は新しい教えを宣教されただけでなく、その教えという道を一歩ずつ進まれました。イエス様による信仰の道は、死、復活、昇天、再臨へとつながります。イエス様が救いの道なのです。この道をイエス様と共に歩みたいと願う人は、より高い目標に到達します。

あなたは誰か?

イエス様の自己紹介を、私たちの日常生活に当てはめることができます。私たちは誰でしょうか。皆さんは誰でしょうか。可能な答えをいくつか挙げます。

  • 「私は羊の群れにいる一匹の羊です。門であるイエス様を通って群れに入ります。」
  • 「私は神様という木に生えている枝です。」
  • 「私は天に向かっている巡礼者です。」

そしてもう少し核心に迫ると、以下のように言えます。

  • 「私はキリスト者です。」
  • 「私は祈りを献げます。」
  • 「私はあなたの隣人です。」

(4月5日nac.todayより)

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