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Catechism

この場所には名前があります。家とか故郷という名前です。あなたが素(す)に戻れる場所だからです。コンゴ民主共和国を担当しているミヒャエル・デップナー教区使徒が、今年の標語について所感を述べてくれました。

新型コロナウイルスの世界的流行により、私たちは皆、ある程度自宅で過ごすことに慣れてきました。制約はありますが、外出制限を体験したことについては、好意的に受け止めることができます。いろいろなものが不足しても、自宅にいればある種の自由が感じられます。自宅から離れたところにいなければならない状況を想像してみましょう。現に一部の人々はそういう状況にあります。(休暇や仕事で)旅行中の人などです。

訪問客への一番の言葉がけに「どうぞごゆっくりおくつろぎください」というのがあります。英語ではMake yourself at home.という表現があります。直訳すれば「ご自宅にいらっしゃるような感じでお過ごしください」とでもなるでしょうか。その自宅では、好きなものを自由に飲み食いできます。自分で好き勝手にできます。誰が来るのか、誰が出かけるのか、誰か泊まるのかは、皆さんが決めます。

永遠の家や故郷にいる時が一番自由だ、というのはわかりますが、今現在は、会衆という家があります。いつも最高の場所とは限らないかもしれませんが、家や故郷にいるような感覚ではないでしょうか。自由でいられるのではないでしょうか。

会衆は赦しの場所です。罪の赦しの宣言が聞ける場所です。ここで私たちは何度も自由にしていただきました(使徒13:38-39)。

会衆は慰めの場所です。実際「気取る」必要はありません。不完全であったり失敗したりしても、恐れることなくキリストの祭壇に来ればよいのです。キリストにあるならば、罪に定められることがないからです(ロマ8:1)。ありのままの姿で来ればよいのです。

会衆は養育の場所です。私たちは命の水をただでいただくことができます。謙虚で気配りができて自分から成長し学習しようとすること以外の代価は払わなくてよいのです。

会衆は慰めの場所です。私たちは(やはり欠点を抱えた)兄弟姉妹に囲まれています。この場所に、弁護者である聖霊がおいでになり、活動しておられます。涙をぬぐい去ってくださるためです。

詩編118編5節にはこう書かれています。「苦難のはざまから主を呼び求めると/主は答えてわたしを解き放たれた。*」つまり「私には自由がなかった。しかし今は聖霊が、すべての方向から自由に動ける場所を与えてくださった。だから何の障害も苦痛もなく動くことできるようになった」ということです。

自由を維持する

ガラテヤの信徒への手紙2章でパウロは、エルサレムの教会で起きている問題は信徒がキリストに見出した自由を詮索する目的で偽の信徒が教会にこっそり侵入したためだ、と述べています。一部のユダヤ人が割礼という風習に逆行しようとしていることに触れようとしたのです。割礼は高い代償を払い、煩(わずら)わしく、もしかしたら苦痛も伴いかねない、旧約の儀式であり律法の一つでした。

私たちは自由とされたのですから、過去に逆行してキリストにある自由を危険にさらす他の要因を持ち込みたくありません。この自由をしっかり維持することは使徒職の務めですが、私たちも皆、自分の役割を果たさなければいけません。

私たちは自由です。未来における自由という問題だけではありません。キリストが自由にしてくださったのですから、永遠の故郷に入れる時まで自由な者として歩みたいと強く思います。再び罪の奴隷になりたくありません。

永遠の故郷に入れるまでの間、私たちは神様の家で自由を味わうのです。

(7月16日nac.todayより)

*バルバロ訳「苦悩の中から主に叫ぶと、主は私の声を聴き、私を広いところに立たせられた。」

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