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Catechism

皆さんにとって、自由の定義とは何ですか。自由の定義を決める要素は、必ずしも実証可能で客観的とは限りません。自由であるという感情だけのこともよくあるのです。人であられたイエス様もご自身の感情に浮き沈みがありました。オーストラリア在住で西太平洋教区を担当している、ピーター・シュルテ教区使徒は、この問題について考察しています。

自由とは何か。この問いに対する答えは人それぞれの部分があります。すべての人が同じ答えというわけではありません。ある人が自由だと感じることでも、別の人は束縛されていると感じるのです。 イエス様は弟子たちにこうお尋ねになりました。「人々は、人の子を何者だと言っているか」(マタ16:13)。イエス様にはイエス様なりの答えをお持ちだったことでしょう。実際ご自分が何者なのかを弟子たちがわかっていたことは、うれしかったでしょうし、大切でもあったでしょう。

確かに、私たち神の子たちが何を自由だと認識するかは、キリストにとって重要です。極論すれば、自分たちにとって何が自由かというのは、自分自身で決められるわけです。このコロナ禍にあって、私たちの多くは厳しい制限を受けたり、町が封鎖されたりしていますが、こうした措置に対して様々な意見があります。隔離を強制されることは自由に反するとして反対する意見がある一方で、コロナウイルスの影響を受けないための模索としてなら容認できるという意見もあります。

「キリストは自由にしてくださる」という今年の標語は、矛盾を生む可能性もあります。イエス様は奪い合い、貧しさ、敵意に満ちた人生でした。もう十二の歳の時から、両親に向かって「私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか」と言っておられます(ルカ2:49)。御父の御旨を実現させることとは、試練と戦い、すべての人のしもべとなることでもあったのです。ゲッセマネの園では、悲しみと失望との戦いを余儀なくされ、御父に向かってこう祈られました。「この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに」(マコ14:36)。こうしてイエス様はご自分の命を十字架上で献げることとなったのです。これが本当に自由だったのでしょうか。

御父と共にいること、御父と一つであること、これが実際どういうことかを、キリストはご存じでした。御父の御旨をこの地上で成し遂げるのはいつなのか、御父との交わりに戻るのはいつなのかを、ご存じでした。

アダムとエバも、最初の罪を犯す前は、神様との親密な交わりという本当な自由を享受していました。そしてキリストは、この世におられた間、ご自身を通して、罪から自由となり、御父と永遠に共にいられるように、ご自身に従うよう招いておられましたし、こんにちにおいても、招いてくださいます。

いただいた自由を用いて、キリストにある自由をはっきりと見極め、一人ひとりがキリストについて行き、キリストの自由を共に分かち合う決意をしましょう。

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