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Catechism

見目(みめ)より心ということわざがあります。これがキリスト教の信仰とどう関係しているのでしょうか。実はとても密接に関係しているのです。結局、キリスト者らしく行動する人だけが、本当のキリスト者なのです。この記事では、八月の日曜礼拝のテーマについて取り上げます。

あなたはどんな人ですか。どんな人になりたいですか。人はあなたについてどう思っていますか。これらの質問は経営者向けの自己発見セミナーから抜粋したわけではありません。実は聖書の言葉なのです。すでにイエス・キリストは、偽善や自己欺瞞に対して警鐘を鳴らしておられました。ところが私たち人間は皆、正体を隠すことに幸福感を覚えます。自分の本当の姿を見せることに恐れを感じるのです。自分の欠点を修正してこなかったことについて、恥ずかしいと思ったり、罪の意識を感じたりする人がいる一方で、大いに喜び楽しみ――実際に思っているより派手に笑う人がいます。現代の曲芸師や芸人です。

すべての人が知っていることですが、見かけと実際はしばしば一致しません。キリスト者も、名前だけのキリスト者なのか、それともキリストの徳をしっかり表せているか、という疑問に直面します。古い賛美歌に「あなたはキリスト者として公に告白していますか。本当に毎日告白していますか。」といった内容のものがあります。非常に深みのある賛美歌です。キリスト教の信条を日常生活の中で実践するためにはどうすればよいか、八月の日曜礼拝でそのヒントを提供します。

真実は偽りに勝利する

最初は、忠実であること、であります。「半分本当というのは全部嘘であることが多い」という格言があります。聖書には次のような言葉があります。「ですから、偽りを捨て、一人一人が隣人に真実を語りなさい。私たちは互いに体の部分だからです」(エフェ4:25)。しかしこれを実践するには、どうすべきでしょうか。イエス・キリストとその行動を、私たちの日常生活の手本にするのです。しっかりとキリストを手本にするのは大変ですが、重要なことです。真実は日常生活だけでなく,信仰においても表すべきです。信仰をゆがめたり他の教義と混合させたりすべきではありません。イエス様による犠牲の死とその復活を否定する人は、福音をゆがめていることになります。キリスト者はこうした偽りを真実によって打ち負かすことができます。

妬みと欲望はすべてを破滅させる

八月第二日曜日の説教では、妬みと欲望です。妬みと欲望は、私たち相互の交わりにとって危険な不安要素であり、キリスト者としての姿勢が欠けている兆候の現れです。「妬みや利己心のあるところには、無秩序とあらゆる悪い行いがあるのです」(ヤコ3:16)。物やカネを欲しがったり、人が持っている物を欲しがったりすることによって、平和が乱れます。私たち人類はこのようなことばかりなのが実情であり、私たちの内面でさえ、常に善と悪とがせめぎ合っています。しかし知恵――つまり生活体験によって鍛えられた、分別を持った聖なるふるまい――を用います。妬みや論争が巣を作ってしまったような会衆は、長続きしません。そういうところには、混乱やありとあらゆる悪がはびこるからです。

尊敬なくして調和はない

他者を尊敬しない人は、葉っぱの無い木のようなものです。そのような木の存在意義が思い付きません。八月最後の日曜礼拝の説教は、この点に関することです。キリストに真剣に従う人は、謙虚な姿勢で人を尊敬することで、わがままやうぬぼれを克服できることを、よくわかっています。「すべての人が自分のことしか考えないなら、私も自分のことしか考えない。」滑稽に思えるかもしれませんが、これは深刻な結果を招きます。わがままや不和は、行き過ぎた個人主義の副産物ですから、キリスト教の会衆には何らふさわしくありません。調和は会衆を良くします。調和は、平等ではありません。個人差は望ましいことです。すべての人の利益のために、一人ひとりがめいめいの能力を発揮すればよいのです。神様の御前では謙虚に、そして人々を尊敬する――これが会衆生活を満ち足りたものにするための規範です。

(7月30日付ナックトゥデイより)

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