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Catechism

キリストの教会で行われるサクラメントを扱ったこのシリーズでは、これまで、洗礼について検証してきましたが、これからは、聖餐について詳しく考察します。新使徒教会はどういう立場をとっているのでしょうか。

洗礼と同様、聖餐もすべての教派で共通して執り行われているサクラメントです。このサクラメントは一度だけではなく、繰り返し施与されます。新使徒教会では礼拝ごとに執り行われますが、他教派では若干その頻度が少なくなります。聖餐に込められる内容は、教派によってかなり様々です。異なる教派の間で、こんにちに至るまで聖餐を共通に執行できない理由が、ここにあるのです。

制定されたのは主御自身である

「私は、キリストが完全に有効な犠牲としてただ一度捧げられ、断腸の苦しみを受けた末に死なれたことを記念して、キリスト御自身により聖餐が制定されたことを信じます。聖餐にふさわしく与ることにより、私たちの主であられるイエス・キリストとの交わりが築かれます。聖餐は、種入れぬパンとぶどう酒によって、執り行われます。このパンとぶどう酒は、必ず使徒から任職を受けた教役者が聖別して、これを施します。」新使徒教会のキリスト教徒は、この新使徒信条第七条を告白します。聖餐の内容と聖餐の持つ意義を、理性や教理という方法で完全に理解することはできません。実際、神様による救いの働きすべてに言えることです。聖餐は、イエス・キリストという人物に備わる秘義と、密接に関連しています。聖餐において、神様の実在と、神様による人類への深い愛情とを、直接に体験することができます。

聖餐については、ユーカリスト、主の晩餐、パンを裂くこと、といった呼び方がありますが(教理要綱8.2.1)、いずれにしても、イエス・キリスト御自身が弟子たちを一堂に会して主の晩餐を制定された、という意味に変わりはありません。主は「私の記念としてこのように行いなさい」と仰せになり(教理要綱8.2.5)、主御自身がなさった方法による聖餐執行の任務とその権限を使徒たちにお与えになりました。

聖餐という典礼

重要なことには準備が必要です。説教、罪の赦しに続いて、礼拝のクライマックスを迎えます。すなわち、会衆による聖餐の執行です。神様を崇める人にとって、荘厳で甚大な典礼です。内省と悔い改めを促す所感が述べられます。会衆一同は悔い改めの賛美歌を歌い、主の祈りを献げます。そして罪の赦しが宣言され、感謝の祈りが献げられます。

この後に、ごく短い時間が取られます。これは聖餐杯を視認できる形で開蓋するために用いられる時間です。これは可能な限りの静寂と威厳をもって執り行われます。比喩的な意味では、いと聖なるお方が啓示されます。すなわち聖餐のパンとぶどう酒が示されます。このことに、会衆はしっかり自覚をもって臨むべきです。

主の食卓が整う

牧司は祝福を示す意味で両手を広げ、聖餐杯の上に手をやり、聖別のための典礼文(教理要綱8.2.16)を唱えます。「父、御子、御霊なる神の御名によって、聖餐のために、パンとぶどう酒を聖別いたします。そしてこのパンとぶどう酒にひとたび捧げられた、永久(とわ)に有効なるイエス・キリストの犠牲を据えます。主はパンとぶどう酒を手に取られ、感謝を捧げてこう言われました『これはあなたがたのために与えられる、私の体、これは多くの人の罪の赦しのために流される私の血、新しい契約の血です。私を記念してこれを食べ(て)、飲みなさい。このパンを食べ、この杯(さかずき)を飲むごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです。アーメン。」

この段階でイエス・キリストが会衆の内にお入りになります。牧司の言葉を通して、キリストの体と血がパンとぶどう酒と合体するのです。神様が実在されるのです!

聖別の言葉は、コリントの信徒への手紙一11章24~26節に書かれています。この中で使徒パウロはイエス様の言われたことを引用し、聖餐の本来の内容について述べています。パンとぶどう酒は、聖別を通して、一般の飲食物と区別されます。聖なる体が制定されることを口頭で宣言することにより、パンとぶどう酒という見える要素の中で、キリストの体と血という目に見えない実在が可能となります。その結果としてパンとぶどう酒の成分が変化するわけではありません。もう一つ別の成分、つまりキリストの体と血の成分がパンとぶどう酒に合体するのです(両体(りょうたい)共存(きょうぞん))。パンとぶどう酒という要素の成分に何の変化(化体(かたい))もありません。

変化しなくても、単なる象徴ではない

様々な教派で意見を異にしている点が、まさにここなのです。成分の変化を賛美する教派もあれば、聖餐そのものを象徴としか見なさない教派もあります。新使徒教会は、パンとぶどう酒の成分は変化せず、単なる象徴としての典礼でもない、と考えます(教理要綱8.2.12)。パンとぶどう酒は、キリストの体と血を単に象徴しているだけではありません。キリストの体と血が実在しているのです。聖別の言葉を通して、キリストの体と血の成分が、パンとぶどう酒の成分と合体するのです。この典礼を執り行うことによって、聖餐の外見(偶有性[ぐうゆうせい=ある事物の本質的ではなく偶然的な性質。/広辞苑第七版])が変化するわけではありません。

こうして聖餐のパンとぶどう酒には、御子が必ず実在します。聖餐のパンとぶどう酒が受ける側に届くまでの間、御子は実在し続けます。聖餐は非常に重要なものですから、会衆はキリストへの敬意、信仰、献身の思いをもってこれに臨むべきです(教理要綱8.2.17)。

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