New Apostolic Church Japan
nac.today latest news

A preparation aid, not a sermo [...]

Changed access details, new st [...]

Life is full of change: there [...]

The pandemic forces people to [...]

Liturgy is more than just a pr [...]

Fewer central video services, [...]

Catechism

友人同士でお別れの晩餐――これには非常に奥の深い意義がありました。二千年にわたって、キリスト教全教派が、この記念の食事を何度も行っています。これは、イエス・キリストによる最後の晩餐について新約聖書が伝えていることなのです。

ナザレのイエス様にとって、社交的な食事は、嫌いなことではありませんでした。嫌がられたり軽蔑されたりしていた罪人たちと一緒に食事されました。敵であったファリサイ派の人たちとも一緒に食事をされました。そしてその都度、あるしるしを送られました。権威を示すしるしであったり、和解を示すしるしだったりしましたが、何よりも、神様の御国の来臨を示すしるしを送られることも、よくありました。

イエス・キリストは、最後の晩餐として歴史の記憶に刻まれている食事会で、この種としては最大のしるしを送られました。この時にイエス様がなさったことと言われたことは、個人の体験として口承にて受け継がれ、最終的に様々な文化圏出身の様々な人々によって様々な時代に文字として書き留められました。聖餐が制定される際の記録が多岐にわたるのはそのためです。

一つの出来事に、その説明はいろいろ

新約聖書の中で現存する最古の書物と考えられている、パウロが書いたコリントの信徒への手紙一に加え、四福音書の中の三つに、聖餐の執行についての記述があります。これらの書物に共通して書かれている要素は、イエス様がパンとぶどう酒をお取りになったこと、パンとぶどう酒の両方を弟子たちに分け与えたこと、このパンとぶどう酒をいけにえとして献げられる御自分の体と血とされたこと、であります。

さらに細かく検証して分かることは、コリントの信徒への手紙一とルカによる福音書は内容が共通していますが、マルコによる福音書とマタイによる福音書はそれぞれ独自の方針で書かれています。一方でヨハネによる福音書にも聖餐の記述があり、別れの晩餐が行われた時のことが詳しく書かれています。しかしその記述内容は、イエス様が弟子たちの足を洗われたことに終始していて、パンとぶどう酒については一切触れられていません。

最も大きな相違点を列挙します:

  • 過越祭について、マルコ、マタイ、ルカの各福音書は聖餐が行われた日付としているのに対し、ヨハネによる福音書は聖餐前日の夜としています。コリントの信徒への手紙で、パウロはこのことに一切触れていません。
  • コリントの信徒への手紙一とルカによる福音書は、聖餐の順序について、食事の最初にパン、終わりにぶどう酒という形で分けて行ったとしています。マルコによる福音書とマタイによる福音書は両方とも、一度に行ったとしています。
  • コリントの信徒への手紙一とルカによる福音書のみ「私の記念としてこのように行いなさい」とイエス様がお命じになったことを記述しています。
  • マタイによる福音書のみ「罪が赦されるように」とその目的をはっきり述べています。

一つの考え方に、いろいろな表現

研究者たちが最後の晩餐についての断片的記述を、逐一正確に記録し直そうとしても、そのための基礎があやふやな状況です。例えば日付については、ヨハネの記述が主流ですが、ほんの数十年前まで、過越祭は日付が固定されていました。

一方で、様々な表現がすべて同じことを指している、ということも明らかになっています。マルコによる福音書とマタイによる福音書は過越を日付として強調していますが、これは結局「私を記念してこれを行いなさい」という永続的な命令と同じです。ユダヤ人たちにとって過越祭は、幼少時代から繰り返し行われる記念の祝祭だったのです。

それだけでなく、コリントの信徒への手紙一、マタイによる福音書、ヨハネによる福音書にはすべて、それぞれ表現こそ違うものの、主の晩餐に極めて奥深い意義があることを表しています。パウロによるコリントの信徒への手紙一では、キリスト再臨を取り上げています(「主が来られる時まで」)。マタイによる福音書では、終末時代の御計画において、少し踏み込んだことを述べています(「私の父の国であなたがたと共に」)。そしてヨハネによる福音書にはもっぱら、弟子たちとの別れに際してイエス様がなさった講話が書かれています。

聖餐を執り行うための方法が聖書にはっきり書かれていない、ということだけははっきりしています。それから、新約聖書が聖餐に与える意義や効果については、さらに多様です。次回はこれらを扱います。

Copyright © 2020. All Rights Reserved.