New Apostolic Church Japan

新郎は、待ちかまえる新婦の指に金属製の指輪を滑り込ませる。必要な権限を持った人が一言述べる。新婦が指にはめているのは一体何なのでしょうか。宝石でしょうか。結婚指輪?象徴?これが聖餐と何の関係があるのでしょうか。

結婚指輪とは、何世紀にもわたってサクラメントとしての聖餐をめぐって繰り広げられてきた神学的・哲学的な論争、より正確には、この聖餐においてイエス・キリストがどのようにして直接に臨在しておられるかという問題を説明した言い方です。

すでに4世紀には、教父アンブロシウスとアウグスティヌスが、このことについて論争していました。そして中世には、トゥールの学者ベレンガリウスとアヴェルサの司教ギトムントがこれについて論争を繰り広げていました。神学者たちがこの問題について意見の一致を見たと思いきや、宗教改革で再び論争が勃発しました。結局この論争が原因で、ルターとツヴィングリという二人の宗教改革者の関係が壊れてしまいました。

象徴か実在か

イエス様は聖餐の中に臨在しておられるものの、霊的にのみ存在するとツヴィングリは考えました。彼にとって—何世紀も前のベレンガリウスやアウグスティヌスのように—パンとぶどう酒は象徴に過ぎません。この考え方は、こんにち、改革派教会の一部だけでなく、メノナイト、バプテスト、ペンテコステ派、そして多くの福音主義的な自由教会にも引き継がれています。

イエス様は聖餐の中に臨在しておられるものの、もっと実在的です。イエス様の体と血がパンとぶどう酒に存在しています。これは、ローマ・カトリック教会、ルーテル福音派教会、正教会、そして新使徒教会の考え方です。これを聖餐におけるキリストの「実在」といいます。

そして、ここに来て、子供だけでなく「では、ウエハースを口にした時は、イエス様を噛んでいることになるの?」という疑問にぶつかります。あの懐かしいトゥールのベレンガリウスは、すでにこの考え方に頭を抱えていました。明確な答えは「いいえ」です。化学的もしくは物理的組成のレベルでは何も起こらないからです。変化は別の次元で起こるのです。

成分か形状か

このことを理解するためには、少し古代ギリシアの哲学にさかのぼる必要があります。これは、モノの「成分」か「偶有性」か、つまりモノの構成か形状か、言い換えればモノの本質か性質か、ということです。冒頭に挙げたイメージで言うと、「結婚指輪」か「金属製の指輪」か、ということです。

このことは「実在」を支持する側にとっては、はっきりしています。というのは、聖餐において、偶有性、形状、性質、つまりモノの構成という観点から、ウエハースはウエハースのままなのです。結婚式が行われている時、結婚指輪は形状も化学的性質もそのままです。しかし、本質的次元では、変化が発生します。挙式を機に、金属の指輪は単なるジュエリーからより意味のある結婚指輪へと変化していきます。

化体か実体共存か

カトリックは、パンとぶどう酒がキリストの体と血に成分変化するという立場を取っています。これを専門用語で「化体」(成分の変化)と言います。

一方、ルター派は、パンとぶどう酒の成分にキリストの体と血の成分が加わるとしています。「実体共存〔両体共存〕」はこの概念の名称で、新使徒教会もそれに倣っています。金属の指輪は、ジュエリーでもありますし結婚指輪でもあります。新使徒教会の教義によれば、聖餐の要素に備わるこの二重の性質は、真の人としてのイエス・キリストと真の神としてのイエス・キリストの二重の性質に対応しています。

効果のある言葉

聖餐が執り行われている時にこうした化体なり実体共存が起きるのはいつなのかについては、意見が一致しています。すなわち、「聖別」の時、つまり、聖餐を行う権限を与えられた聖職者が執行や聖別の言葉を発する時です。そして、イエス・キリストが聖餐を制定なさった時にご自身が発せられた、新約聖書に書かれている言葉に基づいて、執行や聖別の言葉としているのは、新使徒教会だけではありません。

聖餐について考えるのは「敷居が高い」とお感じの方々に、結婚指輪を取り巻く生活の現実を考えるのに役立つかもしれません。妻や夫に先立たれた後も、何十年もこの金属の指輪を身に着け続けている方がどれほどいらっしゃるでしょうか—愛する故人の愛と本質を悟るために…。

すべての神学的理論以上に、諸教派での実践も、それぞれに広く多様化させてきました—どのパンがいいのか、どのぶどう酒にすべきか、誰が聖餐を施与できるのか、誰が聖餐を受けられるのか。このシリーズの次回は、これらの疑問を扱っていきます。

(1月28日nac.todayより)

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