New Apostolic Church Japan
nac.today latest news

Proclaiming the gospel—that is [...]

Anyone who has grown up with B [...]

Paul und Silas had been arrest [...]

“When peace with the Father at [...]

A hundred years ago it would h [...]

Children are our future—this s [...]

Catechism

「とてつもない時には、とてつもない答えが必要です」とジャン=ルーク・シュナイダー主使徒は言いました。その一つが「主の再臨に備えなさい!」ということです。これは、不確実性の時代に確信を与えてくれます。

この異常な時に、何度も問われます。「神様がこんなことを望まれたのですか。」「神様はどうしてこんなことをなさるのですか。」コロナパンデミックとの戦いによって被る、ありとあらゆる制約を言っているのです。こうした問いに対して、私はこう答えます。「こんなことをする神なんて、私は信じることができません。」神様が、人々を苦しめてやろう、たくさんの人が死ねばいい、たくさんの人が困ればいい、なんて思うわけがないのです。しかしこのパンデミックでも、神様による救いの御計画が妨げられることはありません。困窮や苦難に遭っても、神様は私たち一人ひとりが御国への道を歩み続けられるようにしてくださいます。神様は誠実なお方です。私たちは神様を頼ればよいのです。

神様との関係を検証する

【2020年7月12日、ドイツのシュヴェット / オーダーで司式した礼拝で、主使徒は人と神様との関係を中心にした説教を行いました。】

「自分と神様との関係はどうなっているか。」「自分と会衆との関係はどうなっているか。」この問いについて考えれば考えるほど、次の言葉を思い出します。「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(マタ24:44)。もちろん、主の再臨と今の状況とは直接関係ありません。このパンデミックは、主の再臨を知らせる徴(しるし)でも何でもありません。ただそういうこととは別に、ちょうどこの時期に主がおいでになる可能性もあります! ですからこのときにあって主の再臨に備えることも大切なのです。 そこで主がきょうおいでになっても、この非常時においでになっても、しっかり準備できているかどうか自己点検しましょう。

【主使徒は、引用聖句の解釈を始めるにあたって、以上のように述べました。】

最初に、聖別されていることが必要です。聖別されていなければ、聖なる御国に入ることはできないからです。聖別することができるのは神様だけです。つまり、イエス・キリストの犠牲による、イエス・キリストの恵みによる、私たちの罪が赦されることによる聖別です。神様は聖霊を通して、御言葉を通して、真理を通して私たちを聖別してくださいます。しかし私たち人間も、神様に聖別していただきたいと思います。イエス・キリストは、私を信じることが義に至る唯一の道である、と言われました。イエス・キリストを信じるとは、無条件にイエス様を信頼することです。神様はイエス・キリストを信じる人を、信仰を通して義としてくださいます。

主と隣人を愛する

主の再臨への備えができているかどうか、私たちはどう判断すればよいのでしょうか。イエス様は、花嫁と花婿のたとえ話など、具体的な例を挙げておられます。ヨハネの黙示録で、イエス様は最初の愛と生ぬるくなった人について述べておられます。こう自問してみましょう。「主イエスに会うことが、自分にどれだけ重要なのか。」「祈りを通して、礼拝を通して、交わりを通して、神様に出会うことが、自分にどれだけ重要なのか。」「花婿との関係は自分にどれほど重要か。」

【主使徒は、神様を遠ざけてしまう罪の問題について次のように述べました。】

罪は主イエスとの関係を傷つけます。ですから私たちは自分の罪に苦しむのではないでしょうか。自分が犯した罪の責任に苦しむのではないでしょうか。それともそういうことに無関心になってしまったでしょうか。主を愛する人は、自分の罪に苦しみます。

神様への愛は、隣人への愛にも反映されます。イエス様は一致を求めて祈られました。一致とは、私たちすべてが同じ意見でなければいけない、という意味ではありません。最後の最後までいつも意見の隔たりはあるのです。私たちには皆、違います。感謝し合い、助け合い、愛し合うために、違いを乗り越えよう、というわけです。

主の再臨を待つ

【次に主使徒は、イエス様が粘り強いやもめのたとえを用いて、待つ人々について説かれたことに触れました。】

備えるということは、イエス・キリストの再臨を待つことでもあります。これは今でも、私たちの人生の中心です。主の再臨が遠い未来のあいまいな可能性でしかないと思うなら、主の再臨を希望しています、などと申し上げられません。準備するとは、主と永遠に共にいることを一日千秋の思いで渇望するということです。

幼子のような謙虚さ

【主使徒はさらに、聖書からもう一つの例を挙げました。】

イエス様は、幼子のように御国を受け入れない人はそこにはいることはできない、と言われました。つまり、たくさんのことをやった見返りに得られる褒賞(ほうしょう)のような類(たぐ)いの話ではないのです。イエス・キリストによる救済は、純然たる恵みなのです。

以上のように、御国に入る備えができているかどうかは、神様と隣人を愛しているか、主の来臨を強く待ち望んでいるか、謙虚であるかという、この三つの要素で判断することができるのです。

(8月5日nac.todayより)

Copyright © 2020. All Rights Reserved.