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Catechism

この期間は、新使徒教会の歴史の中でも、困難な時代でした。二度の世界大戦、国際化、統合、分裂、再編成――様々なことがありました。彼は、嵐の中でたたきつける波を受けながらじっと立つ岩のようでした。2021年1月2日は、ヨハン・ゴットフリート・ビショッフの生誕150年に当たります。

誰でも生活のプライベートは保証されるべきです。ヨハン・ゴットフリート・ビショッフも例外ではありませんでした。1871年1月2日、ヘッセン州南部(ドイツ)のオーデンヴァルト地方にある小さな田舎の牧歌的な村であるウンター・モッサウで、彼は生まれました。今もその名前は、地元の村を出た人物としての登記が残っています。幼少時代は貧乏で不便な生活を強いられていましたが、それがつらい日々を耐え抜くスタミナ源になりました。11人の兄弟姉妹と一緒に、靴職人の見習いをやったり、慣れない畑仕事をしたり…およそ大成しそうにありませんでした。

 

教会の指導者

初めて新使徒教会の礼拝に出席したのは、1897年の復活祭でした。初めから神様や教会の人たちとの関係を密にし、御業に積極的に関わりました。執事の時から、何度も礼拝を司式しました。牧司になると、ヴィースバーデン、フランクフルト、カッセル、アイゼナッハの教会を訪問しました。1903年には監督に叙任され、その3年後には使徒に叙任されたのです。

1920年から、ヘルマン・ニーハウス主使徒の片腕として彼を補佐しました。1930年から新使徒教会は国際組織となり、ヨハン・ゴットフリート・ビショッフはその指導者となりました。以来、30年にわたり、教会を指導し続けました。1960年まで、世界規模の教会として着実に成長しつつあった新使徒教会の運命を決定づけましたが、政治や地理的な問題もあり、エキュメニカルな面もあり、教義の核心部を一部再考しなければなりませんでした。

 

守るものと見直すもの

教会には、多くの軋轢(あつれき)や不満があり、それが教会の分裂をもたらしました。この分裂状態はその後何年も続きました。ナチス政権との対立、ゲシュタポとの対立、ユダヤ人排斥主義やキリスト教嫌悪主義は言うに及ばず極端な人種差別との対立がありました。また、神学面、特に教会の使徒性をめぐる問題について、根幹となる判断を迫られる時期でもありました。若い使徒であったビショッフは、いわゆる「新しい光の教え」に反対しました。その見解の一つに、次のようなものがありました。「使徒の肉体だけにイエスが宿るなどというのは、妄想である。」さらに、彼がカール・アウグスト・ブリュックナーに宛てた手紙には、次のように書かれています。「残念だが、遣わされた者が遣わした者より大いなる栄光を受けるということは、よくあることだ。最終的には、御業において、礎であり隅石であられる主がふさわしい場所を、私たちの働きを通して与えられるようにしなければいけない。」

 

腹心の友

ビショッフの言葉には重みがあり、常に影響力を持ちました。そうした中で彼は次第に、当時のヘルマン・ニーハウス主使徒の良き相談相手となっていきました。一方で、ブリュックナー使徒との関係は急変しました。一人は教会に残り、もう一人は去って行きました。1924年12月、ニーハウス主使徒はビショッフ使徒を後継者に指名しました。ザクセン人だったカール・アウグスト・ブリュックナー使徒も、当時の難題に立ち向かったのでしょうが、1921年に教会を破門されています。その後ブリュックナーは、こんにちの使徒教会連合の一部となる、改革派使徒教会同盟を設立しました。

ヨハン・ゴットフリート・ビショッフは主使徒として、礼拝の典礼式次第において大小含め数多くの変化をもたらし、故人のための礼拝を年三回実施するようにし、教区単位の子供礼拝を導入し、北米の会衆を訪問しました。1946年には彼の主導で、初めて中継礼拝が実施されました。ロイトリンゲンの教会で行われた礼拝が中継されました。1956年にフランクフルト・アム・マインで司式された彼の礼拝は、ケーブル回線経由で321の会衆に中継されました。

 

主使徒

こんにち、ヨハン・ゴットフリート・ビショッフというと、ボットシャフト(主使徒が死ぬまでにイエス・キリストがおいでになる、との宣言)と、それが原因で教会が分裂したことを思い起こす人がたくさんおります。しかし、このようなこと以外に、彼は主使徒として非常にたくさんの業績を上げています。当然のことながら、ただ規定の上で主使徒だったわけではありません。ゆるぎない信仰、使徒職の内在化、持続性を持たせた教義内容の制定はどれも、教会の僕(しもべ)として彼が行った広範囲にわたる業績の一部なのです。教義の制定については、その一部が、こんにちにおける新使徒教会教理要綱の枠組みを形成しているのです。このように、彼は二度の世界大戦を生き抜き、創立間もない教会を世界規模に広め、その一致を図り、再編成を成し遂げました。しかしそんな折、度重なる教会の分裂に、彼の生涯は苦難の連続でした。

1960年7月6日、ヨハン・ゴットフリート・ビショッフはカールスルーエでその生涯を閉じました。

(1月2日nac.todayより)

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