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Catechism

人間は、何をすべきで何をすべきでないのかを選ぶことができます。しかし、自分の判断で罪を犯し、神様の御前に負債を負うことになるのかどうかは、私たちが自由に決められることではありません。個人の責任とは、自分の行動によって伴う結果を自らの意志で負うということでもあるのです。

「私はどうすべきなのでしょうか。」「何が正しい判断なのでしょうか。」「牧司さんならどう判断しますか。」—–教役者はよく生活上の質問を受けることがあります。そして、そうした質問に拙速に回答してあとで後悔することがあるかと思えば、回答に質問者が満足しなかったり、話が脱線したり、言い足りないと思ったりして、本当にジレンマに陥ってしまいます。これは個人の責任であり、責任の定義の問題でもあります。

日常生活の問題は自分で判断する

兄弟姉妹は、教役者の職務〔教職〕が日常生活の問題と関係しないことを理解すべきです。成熟した人間、成熟したキリスト者として、独立し、自律し、自らの権利によって物事を判断し、当然その結果に対する責任も自分が負います。理性的な人間なら誰でも、自分の行動に責任を持っています。

「決断を迫られた時は牧司が助けてくれるべきだ。何のための牧司か」と思う人もいます。しかし牧司は、日常生活の問題について、兄弟姉妹から判断を迫られるようなことがあってはなりません。イエス様も同じことを言っておられます。例を挙げると、

「群衆の一人が言った。『先生、私に遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。』イエスはその人に言われた。『誰が私を、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。』そして、群衆に向かって言われた。『あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産にはよらないからである。』」(ルカ12:13-15)。

ここでは、相続が問題になっていました。イエス様の答えははっきりしています。イエス様にとって大切なのは、神様による救いだけだったからです。相続問題などどうでもいいことでした。牧会とは、日常生活の問題で助言したり、判断を手助けしたり、人に代わって判断したりすることではありません。善意、気遣い、教会員の期待がもとで、予測不能な結果を招くようなことがあってはいけません。

ジャン=ルーク・シュナイダー主使徒は、2021年10月24日にドイツのハイルブロンで行われた礼拝の説教で、このことを明確にしました。「私たちの教会の組織や機構に関する問題において、意見、伝統、規則について言えば、信仰は必要ありません。必要なのは、常識、知識、専門性、そして何よりも隣人愛です! 神様への信仰、福音への信仰、イエス・キリストの教えへの信仰は必要です。神様との関係を築くためには、信仰が必要です。それ以外のことでは、むやみに信仰に訴えるべきではありません。」

すべては救いのために

こんにちにおける私たちの生活は、個人の自由度が高く、誰もが自分の人生に責任を持たなければなりません。このような社会状況も牧会は成立します。教役者は、アドバイスを求めてくる相談者に、自分で責任を取ることを勧め、神様の御前と自らに対する責任を自覚させるのです。

他方で、神様への愛を深め、信仰生活を推し進め、神様による救いの働きについて知恵を増し加えることについては、教役者は喜んでアドバイスしてくれます。このように、教役者は自分の使命を自覚しつつも、控えめに裏方に徹します。これこそ「信頼」です! 信頼は牧会者が努力すべきことの核心であり、それ以上でもそれ以下でもありません。この世のことと同じように、兄弟姉妹は信仰に対しても責任を負う必要がありますが、信仰生活を歩む中で教役者に支援を求めることができます。教役者は話を聞き、気持ちを共有してくれます。そして兄弟姉妹と一緒に兄弟姉妹のために祈ってくれます。「特に現代社会においては、独身者や独居者、あるいは社会と隔絶された人が増加しており、新使徒教会員は日常生活において教役者からの配慮や支援を受ける。」(教理要綱12.4.3)。

これは親密な信頼関係であって、父権主義や不安感ではありません。特に信仰の問題については忠告もできます。それにどこまで従うかは、相談者が決めることです。個人の責任が尊重され、奨励されます。

(11月30日nac.todayより)

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