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Catechism

「死」を考えると、とても恐ろしくなります。苦しみ、孤独、人のなすがまま―そう思うと、恐ろしくなります。ですから、「自分の人生の終わりは自分で決めたい」という人もいます。信仰によって、終末期のこうした相容れない感情に釣り合いを保つための方向が見えてきます。 

7月に発行された教会季刊誌Community 2022年3号の中に、「Between euthanasia and palliative care(安楽死と緩和治療の狭間で) 」という教義記事があります。日本語版「コミュニティ」では9号に掲載される予定です。この記事は、医学、心理学、法律の専門家で構成される医療専門部会の監修によるものです。 

この記事によれば、「すべての人間には尊厳死の権利がある」と新使徒教会の立場を明らかにしています。臨終の過程では、苦痛や個の喪失、それに医療器具や薬物や人工栄養による延命措置に対する恐怖が伴います。それが安楽死の話題に直結するわけです。 

基本的な考え方は、二つあります。一つは安楽死つまり死の幇助(ほうじょ)で、もう一つは終末期看護です。 

安楽死の長所と短所 

積極的安楽死は、本来、末期患者や瀕死の人の求めに応じて、他者が意図的に生命を絶つことを意味します。安楽死とセットで語られることが多いのが自殺幇助です。前者は、患者の明示的もしくは暗黙的な要請により、誰かが意図的に患者を死に至らしめることで、後者は、誰かが患者の自殺を手助けすることです。 

積極的安楽死の賛成派はこのことを自己決定権と考え、中には「安楽死は人間の尊厳だ」考えている人もいます。彼らが最も主張しているのは、耐え難い苦痛を防ぐことです。 

積極的安楽死の反対派は、「人間の生命は侵すことのできないものであり、自発的に抹殺することはできない」という立場です。かつて、ある国々が特定の条件下で積極的安楽死を合法化させ、後にそれが別の国々に拡大した時期がありました。反対派はこうした状況に危機感を覚えました。「医師が治療だけでなく積極的殺人も許可されれば、信頼関係につながりかねない」と医師会は懸念します。 

信仰の観点から 

記事によれば、キリスト教という観点から、生命は神様によって与えられています。人間の尊厳は、神様との類似性に基づいているため、能力や健康状態とは無関係です。自殺幇助だけでなく、積極的な安楽死も「殺してはならない」という第五の戒めに反します。 

新使徒教会の立場ははっきりしていて、積極的安楽死も自殺幇助も認めません 

神様からいただいた賜物である生命を恣意的(しいてき)に絶やしてはならない、と記事では述べています。しかし、考えられるすべての可能性を利用して、延命させなければならない、というわけではありません。延命治療を拒否して死を許容することは、キリスト教信仰の原則に反しません。 

臨終を迎える人の支援に関する提言 

「安楽死についての議論は、一つの考え方に支配されているのが一般的である」というのが医療専門部会の見解です。キリスト教という観点から最も重要なこと、つまり臨終に向かう人を扶養し苦痛を緩和することによって支援するためにはどうすればよいか、ということが後回しにされている、ということです。 

このような背景から、新使徒教会は以下のように提言します。 

  • キリスト教的な人間観に基づき、末期患者や臨終を迎える人には、快適な環境の中で、親族や専門家による愛情に満ちた、思いやりのある優しい支援を提供するよう配慮すべきである。 
  • 多くの場合、緩和医療によって、終末期に現れる苦痛や不快感をしのぐことができる。栄養と水分の補給は、末期患者を不快にさせることなく、それが役立つ限り続けなければならない。 
  • 症状の緩和を目的とした疼痛の鎮静措置は、わずかながら命を縮める危険性がある。この措置は専ら症状の管理を目的とするものであるため、認められることもある。 
  • 一貫した信頼できる支援を提供する、福音に照らした牧会は、多くのことが変化する人生のこの段階において、臨終に向かう人とその人に寄り添う人々にとって重要である。牧会と支援は、不安を和らげ、霊的な力を動員することができる。 

アンドレアス・ローター[写真:日本新使徒教会] 

2022年7月4日nac.todayより[一部改変] 

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