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Catechism

ソーシャルディスタンス遵守のため、ドイツのカールスルーエの教会には180人の出席「しか」ありませんでした。主使徒は、この困難な時に会衆を力づけ慰めるためにぴったりの言葉を探し出しました。

詩編146編が聖句として選ばれてから、主使徒の説教はすでに概略が決まっていました。「主は捕らわれ人を解き放ち、/主は見えない人の目を開き/主はうずくまる人を立ち上がらせ/主は正しき人を愛される。」

「捕らわれ人」という言葉を聞くと、何か深刻なことをして、その罰として禁固刑や懲役刑を受けている人という印象を、否が応でも受けてしまいます。しかし、旧約聖書でいう「捕らわれ人」とは必ず戦争による捕虜を指します。ある国に勝った軍隊は、人々を戦利品として捕らえて強制的に移送します。人間は堕罪以来、自由ではありません。罪の支配下にいます。私たちは捕らわれ人です。捕虜となっている私たちを解放しようとしてくださるのが、神様です。イエス・キリストを通して、これを実現してくださいます。

捕らわれ人を解き放つ

イエス・キリストは人々を、罪の力から、悪の支配から救い出そうとお考えです。一人一人の個性を大切にしてくださいます。イエス様の業は大量生産ではなく、ち密な作業です。私たちも一つとなって協力しなければ実現しません。ペトロが逮捕され投獄された時、絶望的な状況でした。鎖につながれて二人の兵士に挟まれていて、逃げられる見込みはありませんでした。しかしそこに主の使いが現れて、目を覚まして、服を着て、自分について来るようペトロに告げたのです。

ペトロは正しい対応をしました。天の使いを信じて、目を覚まし、服を着ると、鎖がはずれ、牢屋の門が開き、ペトロは門を通って通りに出ることができました。神様は鎖を緩め、扉を開き、門番の目を閉じられました。けれども信じて、服を着て、天使について行ったのは彼自身です。

見えない人の目を開く

これも救いをたとえた表現です。イエス様はある時、弟子たちの目が見えていないことをお叱りになりました。御国について教えを説かれた時、完全に誤解したためです。自分の使命を理解できない彼らをお叱りになったのです。目が見えない状態はこんにちのキリスト教徒にも見られます。イエス・キリストの使命を正しく理解できていません。イエス・キリストを信じ、祈りを献げ、教会に通っていれば、神様が守ってくださるだろう――そう思っているのです。ですから事故が起きたり、人の不幸があったり、不条理なことが起きると、このような人たちは動揺してしまいます。目が見えていないとは、こういうことです。霊的な意味で目が見えていないのです。

イエス・キリストを信じるのは、不運な目に遭わないためではありません。イエス様の働きは、私たちを罪から救済することに力点が置かれています。苦難や問題に直面しても、イエス様は私たちを御国へ導いてくださいます。

目が見えない状態には、もう一つの形態があります。「きょうだいの目にあるおが屑(くず)は見えるのに、なぜ自分の目にある梁(はり)に気付かないのか」(マタ7:3)。自己評価は甘くなるのが普通です。ヨハネの黙示録でよく目にする箇所ですが、主はラオデキアの教会にこう書いておられます。「あなたは、『私は裕福で、満ち足りており、何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」(黙3:17)。考えさせられる言葉です。私たちも目が見えていないのではないでしょうか。イエス・キリストに集中しましょう。自分を隣人や誰かと比較しないようにしましょう。イエス・キリストを基準にして自分自身を判断しましょう!

人の苦しみや貧しさが見えていない人はたくさんいます。皆自分のことしか考えず、隣人――伴侶、家族、一般社会――に対して自分がとった行動の結果を考えようとしません。あたかも苦しみが病原体であるかのような物言いです。この点について、聖霊は私たちの目を開かせようとしておられます。神様の愛を私たちの心に注ぎ、御自身が私たちに働きかけて、この愛が私たちの中で成長するようにしてくださいます。

うずくまる人を立ち上がらせる

神様は皆さんのことをあきらめておられません。遅すぎる、ということはないのです! 誰一人遅すぎることはありません! 神様は誰一人永久追放なさいませんでした! 聖霊は慰め、希望、確信を持たせてくださいます。「あきらめてはいけない。遅すぎることはない。救いはまだある。イエス・キリストの贖いに与ることができる。」

神様は会衆を通して、意気消沈している人を慰めてくださいます。イエス・キリストは私たちに、意気消沈している人を起き上がらせ、互いに慰め合い、励まし合うことを求めておられます。コロナ危機によって落伍者となる人が出ないかと心配です。そうなりそうな人々のことを話題にしたり直接声掛けをしたりしている人が誰もいない、という声が聞かれます。その人たちの顔を全く見ていない、その人の話は全く聞いていない、とのことです。

うっとうしく思われたり高圧的に感じたりされるのを危惧するのでしょう。声掛けをすれば、「自分たちが管理されたり礼拝出席を強制されたりするのではないかと感じるだろう。だから声掛けをためらうのかもしれない。」片方で「誰一人自分のことを尋ねてこないし連絡もしてこない」という言い分で、その反対側では「あの人たちは私に連絡してこない。まったく顔を見せない。私たちは押し付けたくない」という言い分。愛する兄弟姉妹の皆さん。御自身の魂をおろそかにしてはいけません! 電話がかかってくるまで待っていてはいけません。皆さんの隣人がどうしているのか、皆さんのほうから聞いてみましょう。

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