New Apostolic Church Japan

四旬節と受難節…。苦しみそして悲しみを連想させます。求められるのは、思いやりです! しかしそれと同時に、認識を新たにすべき時でもあります。イエス・キリストが苦しみを強いられた理由を、キリスト者は絶対忘れてはいけないのです。キリスト者のために苦しまれたのです!

御子は苦しんでいる人の味方である、とされています。いつも貧しい人、悲しんでいる人、病気の人を守り、時には彼らを癒されました。「そこで、イエスの評判がシリア中に広まり、人々がイエスのところへ、いろいろな病気や痛みに苦しむ者、悪霊に取りつかれた者、発作に悩む者、体の麻痺した者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々を癒やされた」(マタ4:24)。

しかし、状況は次第に変化して、イエス様ご自身が苦しみを受け、弟子たちにこう繰り返さし言われるようになりました。「この時から、イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(マタ16:21)。

新使徒教会では伝統的に、三月第一日曜日に故人のための礼拝が執り行われ、これ以降の礼拝ではキリストの受難がテーマとなります。聖土曜日まで毎日、イエス様が苦しみを受けた時に思いを馳せるのです。キリスト者が神様の関係を真剣に問い直す時期です。皆さんはエマオに向かっていますか。それともまだ何かに夢中になっているのですか。

「私はあなたがたのために苦しんだのではなかったのか。」

三月第二日曜日のテーマは「苦しむ神の僕(しもべ)」です。「彼が担ったのは私たちの病/彼が負ったのは私たちの痛みであった。/しかし、私たちは思っていた。/彼は病に冒され、神に打たれて/苦しめられたのだと。」これはイザヤ書の言葉ですが、表面的には、可哀想ですし、ショッキングです。しかしこれは極めて価値の高いことなのです。神様から遣わされた人の子は「彼の受けた懲らしめによって/私たちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、私たちはいやされた」とイザヤは書いています。これこそ確たる証(あかし)です!

このことから、イエス様が死なれたから人類は生きられている、ということがはっきりわかります。代わりに苦しんでくださったから人類は癒しを受けられる、ということがわかります。苦しむ神の僕は、人類の救いなのです。ですから神様に深く感謝すべきです。信頼が築かれると、特に苦しい状況の時に大きな慰めとなります。神様は小さな群れに御国を約束してくださったということを、キリスト者は知っています(ルカ1:32)。

「私はあなたがたと一緒にいるではないか。」

御国がそう遠い先の話でないことは、信徒一人ひとりが教わっています。何よりも聖餐がご臨在の証です。三月第三日曜日の説教では、信仰の秘義を検証します。これについては、表現こそ異なりますが、旧約聖書でも触れられています。しかしこの記述を、イエス様の公生涯と御業といった観点で解釈すると、さらに意味が深まります。「キリスト者たち、励まし合いなさい。イエス様の御業を覚えなさい。イエス様はあなたがたのためにいけにえとなり、あなたがた一人ひとりのことを考えてくださったのです。」

信仰の秘義は奥が深いものの、聖餐が執り行われることにより、これが具現化するのです!

「私にも入らせなさい。」

三月最後の日曜日は、棕櫚(しゅろ)の聖日で、教会暦の中でも主要な祝日の一つです。その歴史的背景は次の通りです。イエス様は、エルサレムへ向かわれる途中で、ご自分が受けることになる苦しみについて、弟子たちに三度目にお話しされました。この苦しみが彼らにとっての危険をも意味すること、そして、弟子であることにより生命の危険もはらむものの周到に練られた計画が成功を約束するように一つ一つすべてに意味があることを、イエス様はお告げになりました。イエス・キリストの苦しみがイースター(復活祭)まで主要テーマですが、喜びへの入り口でもあります。世の救い主なるキリストがお入りになり、御手の中ですべてを平安にしてくださるのです。危機や災害が、ご自分の民を御国へ導く妨げにはならないのです。

(3月1日nac.todayより)

Copyright © 2021. All Rights Reserved.