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Catechism

「アーメン、主イエスよ、来りませ。」――聖書の最後から二つ目の節に書かれている言葉は、キリスト教における大いなる待降節を予示しています。「私のイエス様」シリーズでのマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという四つの観点から、信徒が待ち望んでいるお方の本質を、完全に捉えることができますか。

私のイエス様は多面的なお方です。私はこのお方についての本を書きました。

私は紀元1世紀のキリスト教徒で、どちらかというと哲学的な感じの人間です。このことは私の著作の冒頭にはっきり現れています。命の言葉の序文として知られる、「ロゴス」に関する有名な前書きです。ユダヤ教の知恵の教師が、そしてギリシア思想家たちも同様に、世の中のより高い秩序を表すのに用いる用語です。

冒頭部では、地上におけるイエス・キリストの働き全体の概要を、少ない単語を用いて表しています。「言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。」

すべての人のために向けて

私が使うギリシア語は、ヘブライ語に強く影響されています。私はエルサレムとパレスチナの地理に詳しいです。ユダヤの祝祭や習慣にも、地方の習慣にも精通しています。

私の本は、たくさんの人たちに向けて書かれています。「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。」――これはユダヤ人キリスト教徒のことを言っています。「ラビ(訳をつければ、さながら教師といったところでしょう)」――これは異邦人キリスト教徒が適切に解釈すべきことです。そして、十字架にはイエス様を嘲る言葉がつけられましたが、「それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。」私の時代では、これ以上の世界観はまず無理でしょう。

信じることができるように

私のイエス様は人となられた神の御子であります。「言は肉となって、私たちの間に宿った。」結局「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛され」ました。御子こそ、御父を現しておられます。「私を見た者は、父を見たのだ。」ですから、私の著作においては、「私と父とは一つである」という言葉が、鍵となります。

ただ、鍵となる表現は、他にもあります。それは「信じる」という言葉です。ギリシア語のページそれぞれに、少なくとも三か所は登場します。いずれにしても「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアである」つまり「イエス様が神の御子キリストである」ということを信じるため」です。です。なぜなら「御子を信じる者が永遠の命を得る」からです。

非凡な多面性

イエス様は非常に多面的なお方なので、イエス様について「一つ一つ書き記すならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」イエス様について記述する最善の方法は、イエス様御自身の言葉を使うことでしょう。

「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがな〔い。〕」――「私は世の光である。私に従う者は闇の中を歩ま〔ない。〕」――「私は門である。私を通って入る者は救われ〔る。〕」――「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」――「私は復活であり命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」――「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。」――「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。」

そうです。私のイエス様は神様なのです。永遠なる父の永遠なる御子なのです。私はこのお方についての本を書き始めました。そして教え子が代わって仕上げてくれました。私はヨハネと呼ばれています。

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