2023年5月17日 0:00:00 JST

旧約聖書で止まっているのではなく、イエス・キリストが解かれたことに耳を傾け、それを受け入れよう ― ジャン=ルーク・シュナイダー主使徒は、2023年4月2日、ギリシャのアテネで司式した礼拝の中で、このように訴えました。

 

 

私はほぼ毎週日曜日に申し上げていることがあります。それが私の悩みだからです。旧約聖書で止まっているキリスト教徒が、まだまだたくさんいるのです。彼らは神様やその使者が物事を正し、罪人を排除してくれることを期待しているのです。

 

しかしイエス様がおいでになったのは罪人を罰するためではなく、救うためです。社会を変えるためにおいでになったわけでもありません。イエス様の目的は、神様による統治を実現させることです。そしてそれは私たちの心で始まるのであって、私たちの国で始まるのではありません。

 

 

王、平和、栄光

〔主使徒はルカによる福音書19章38~40節を基調聖句として説教を行いました。〕イエス様がエルサレムにお入りになると、弟子たちの一団は喜んで神様を賛美しました。「主の名によって来られる王に/祝福があるように。/天には平和/いと高き所には栄光があるように。」一団の中にいた一部のファリサイ派が「先生、あなたの弟子たちを叱ってください」と言うと、イエス様はこうお答えになりました。「もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶだろう。」

 

直前に弟子たちはたくさんの奇跡を経験していました。イエス様が病人を癒やし、数個のパンをとてもたくさんの人々に切り分け、死者を生き返らせるといったことをなさいました。彼らにとって、イエス様が王であること、つまり神様による地上の統治を築くために神様から遣わされたお方であることは、疑いようのないことでした。ですからイエス様が

 

  • 平和をもたらすお方であるということです。すでに天は平和でした。この平和とは、ただ戦争がないというだけではありません。当時のユダヤ人にとって、神様の平和とは、天国のような状態を指しました。

 

  • 弟子たちが変貌の山で見たり、マルタが兄弟ラザロの生き返る様子を見たりしたように、神様の栄光を明らかにしてくださるお方であるということです。

 

対立をはらんだ発言

これはファリサイ派に物議を醸すことになりました。イエスをメシアとすべきなのか。神の栄光は神殿の外にあるものなのか。平和はモーセの律法に絶えず忠実であること以外に実現するものなのか。そんなことはあり得ない! それ故彼らは大変動揺したわけです。

 

イエス様は、神殿が後に破壊されることを予告され、改めてこう言われました。「今や私が律法であり、私が平和をもたらす。神殿の時代は終わったのだ。」

 

これは今の私たちに何を意味するのでしょうか。歴史を知ることはとても良いです。しかしもっとすべきことがあります。歴史を用いて何かをする必要があるのです。

 

 

内面から成長する

神様の願いは私たちを御国に導くことですが、まず神様に私たちの内面を統治していただくようにしなければいけません。これは力の行使ではなく、神様の御言葉とサクラメントによる天来の奉仕が成される過程で行われます。イエス・キリストは私たちを御国に導いてくださいますが、それを実現させるには、イエス様に私たちの内面を統治していただくようにしなければいけません。これに必要なのはイエス様の御業ではなく、私たちの行いです。

 

イエス様は平和の実現を願っておられます。しかしこの平和とは、イエス様の戒めを実行に移すことです。つまり、神様と隣人を愛するのです。イエス・キリストを信じ、悔い改め、謙虚に振る舞うならば、恵みと平和に与(あずか)ることができます。

 

神様の栄光が内面から出てくるようにしなければいけません。魂を清め、聖別しなければいけません。新しい被造物を私たちの内面で成長させなければいけません。最終的には外から分かるようになります。最終的には一般の人たちに特別なものを感じてもらうことになります。まだ不完全な人間であっても、神様の栄光は、すでにその一部を外から見ることができるのです。

 

 

原著: Andreas Rother
https://nac.today/en/158033/1154715


nac.today: New Apostolic Church International

 

←ホーム