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神はどのように助けてくださるか

愛する兄弟姉妹の皆さん。
私たちは複雑な時代に生きています。あらゆるところから、悪がいかに強力であるかが伝わって来ます。このことは本当に深刻です。だから礼拝に行くのは良いことです。礼拝を通して、神様がどれほど力強いお方であるかを、聖霊が教えてくださるからです。
多くの場所で、近年の状況は実にひどく、芝居を見ているかのようです。しかし、人類の歴史は常にそのようで時代だったことを忘れてはいけません。そして敬虔な人々は、聖霊の働きによって、聖書の中に慰めと力を見出してきました。神様が当時なさったことは、聖霊の働きによってこんにちでもしてくださるのです。
困難な時でも、神様への崇拝を忘れないようにしましょう。神様の業と神様の臨在が、完全であることを忘れないようにしましょう。神様は私たちを選び、ご計画を進めておられます。私たちが常に神様を畏れ、常に神様に従順に、常に神様に謙虚に、常に神様を信頼し、常に恭しく、常に愛にとどまっているならば、神様は私たちを助けてくださいます。神様ご自身が仲介してくださることもあれば、他の人を通して助けてくださることもあります。その場合、私たちはその助けを受け入れる必要があります。使命が助けの時もあります。「隣人に分け与えなさい。そうすれば、私はあなたがたが与えた以上のものを与えよう」。
敬具

(署名)

ジャン=ルーク・シュナイダー

力と、愛と、思慮をもって

南アフリカ共和国ケープタウンにある、ターフェルシフ教会は、およそ四千人を収容できます。

 

テモテへの手紙二1章7節
神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だからです。

 

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、このような大きくて素晴らしい所で御聖霊降臨記念日を祝うことができるのは、間違いなく大きな喜びです。こんにち、私たちとつながっているすべての人々のことを思う時、これを可能にしてくださった天のお父様に感謝致します。きょう、私たちは聖霊の注ぎと、キリストの教会の誕生と呼ばれるものを記念します。


ありがとうございます。愛する兄弟姉妹の皆さん。今、聖書朗読で、初めて聖霊が降臨した日のことを読んでいただきました。この大いなる出来事がもたらした意義を思い出し、すべての目的を思い起こすことは有益かもしれません。いつものように、すべては神様の愛から始まります。これがすべての始まりです。全知全能の神様は人類を愛しておられ、その愛のうちに、父なる神、御子なる神、聖霊なる神による交わりを私たちができるようにしてくださいます。それが神様による愛の目的です。人々が御父と御子と聖霊と親しく交われることを望んでおられます。そのために、神様は御子なる神様を地上に遣わし、救いの門を開き、救いに与る機会、すなわち神様との交わりを持てる機会を人間に与えてくださいました。イエス・キリストは、ご自身の犠牲によってこの救いの門を開いてくださったのです。

すべては神の愛で始まる

その後、イエス・キリストは天に召され、この救済の業を続けるために、聖霊なる神様が地上に遣わされました。こんにちでも、聖霊は人類に救いをもたらすために地上で働いておられます。人々を清め、イエス・キリストの再臨に備えて働いておられます。その時、イエス・キリストはご自分と一緒にご自分の王国に連れ戻しに来られ、そこで彼らは神との永遠の交わりを持つことになる。これが今日、聖霊が行っている働きであり、それは教会で起こっている。聖霊はおもに使徒職を通して、ご自身の使命を果たされるのです。


使徒職を通して聖霊は、神様との永遠の交わりに入れるように、教会にいる私たちを聖別し、整えてくださいます。この神様との交わりに入られた最初の方は、復活されたイエス・キリストでした。私たちも神様との永遠の交わりに入りたいなら、キリストとの永遠の交わりを持ちたいなら、イエス・キリストのようにならなければいけません。これがたどるべき道なのです。キリストと永遠に共にいたければ、キリストのようにならなければいけません。つまり、キリストが考えておられるように考え、キリストがなさったように行動し、キリストのようにならなければいけないのです。


イエス・キリストとは、どのようなお方なのでしょうか。愛し、仕えるお方です。神様と人間に仕え、救いの門を開くために、地上に遣わされました。そして、御父の許にお帰りになりました。そして、では、天国で何をしておられるのでしょうか。引き続き、仕えておられます。私たちを執り成してくださっています。助けてくださいます。仕えてくださるのです。


従って、イエス・キリストのようになる―イエス・キリストのように考え、イエス・キリストのように行動し、イエス・キリストのようになる―ためには、私たちは愛し、仕えなければいけません。神様が私たちの助けを必要としているからではありません。全能なる神様は天と地を無から創造されたお方です。私などいなくても、おできになります。神様が人間の助けを必要としているという問題ではありません。神様は誰も必要としません。そういうことではなく、私がイエス・キリストのようになるために、私が仕えなければいけない、ということなのです。仕える必要があるのは、私がキリストのようになりたいからです。


イエス・キリストのように仕えるとはどういうことでしょうか。人々が救いを見出せるようにすることで、神様の救いと贖いの御業に貢献する、ということです。人々が絶えず救いに向かうことができるようにする必要があります。そのためには福音を宣べ伝えることが必要です。イエス・キリストのことを、そして、神様の御国に入れる可能性があることを、人々に知らせる必要があるのです。


私たちは、いつも教会において救いが得られるようにしておかなければいけません。ですから、福音と罪の赦しの宣言、サクラメントの施与、聖徒の交わりを、人々が確実に体験できるように、私たちは教会で自分の役割を果たさなければなりません。これがキリストのように仕えるということです。だからこそ、私たちは仕えなければならないのです。いつかキリストと共に統治したいと願うなら、キリストのようになり、キリストがお仕えになったように仕えなければならないのです。

 

こんなことを言う人がたくさんおられます。「仕えるといっても、非常に難しい。もう神様になんて興味を持たない。信仰なんか興味がない。神様を必要としておらず、神様無しでやっている。イエス・キリストの証人になることなど、到底できない。教会は長続きしないだろう。」一方で、このようなことを言う人もいらっしゃいます。「それは結構だが、自分には無理だ。弱い人間だし、力量もない。」はたまたこのようなことを言っている人もいます。「自分のことで手一杯なのは、あなたにも分かるだろう。たくさんのことに対処しなければいけないのだ。教会の職分を果たせるだけの奉仕や貢献はできない。人の救いに貢献するのは無理だ。」


そこで、本日の聖句が登場します。臆病になってはいけません。神様が私たちにくださったのは、臆病の霊ではないのです。聖霊の賜物によって、私たちは皆、主に仕え、使命を果たす力を与えられているのです。今回の聖句は、言語によって翻訳が異なっています。この英語版聖書では、神様は私たちに恐れの霊をお与えにならなかったと書かれています。小心の霊としているものもあれば、臆病の霊としているものもあります。しかし、意味はすべて同じです。神様がくださった霊は、臆病の霊ではなく、小心の霊でも恐れの霊でもありません。つまり「怖がってはいけない」ということなのです。

臆病とは、状況が難しくなった途端にあきらめたり勇気がなくなったりすることです。臆病になってはいけません。与えられた使命から尻込みしてはいけません。聖霊の証しを信じるのです。皆さんが受けた御霊の証印を信じるのです。信じましょう! イエス・キリストが奉仕なさったのと同じように皆さんも奉仕できるという意味で、そしてイエス・キリストが愛されたのと同じように皆さんも愛することができるという意味で、神様は、皆さんがイエス・キリストに似た者となれるようにしてくださったのです。聖霊は、皆さんがそうなれるようにしてくださるのです。


聖霊は力の霊です。神様の力とも言うことができます。聖霊は神様の行動、働きです。聖霊を通して、神様はご自身の力、ご自身の強さを表されます。忘れないでいただきたいのですが、教会は人間の働きではありません。教会は聖霊の働きです。人間の働きだとしたら、もう無くなっているでしょう。なぜなら、人間とはどのようなもので、人間に何ができて何ができないかを、私たちは知っているからです。教会が人間の働きだとしたら、もう無くなっているでしょう。しかし、教会は聖霊の働きであり、聖霊は神様の力です。ですから、聖霊が使命を果たすのを妨げるものは何一つありません。そして教会は死に勝利します。教会において聖霊が使命を果たすのを妨げることは、誰にもできません。


イエス・キリストが聖霊の賜物を受けたように、私たちも聖霊の賜物をいただいています。聖霊はイエス様と共におられました。そして、聖霊によってイエス様は悪に勝利し、死から復活できたと聖書に書いてあります。そして「もしこの聖霊が私たちの内に宿り、私たちの心に生きておられるなら、同じ力だから、人間に不可能なことができる」とパウロは言っています。イエス・キリストが悪に勝利し、死者の中から蘇るのを可能になさった聖霊が、私たちの内に生きてくださるなら、イエス様が私たちに期待しておられることを私たちは実行できます。ひたすら信じてください。皆さんの能力次第ではありません。皆さんの気持ち次第です。信じるなら、できます。恐れることはありません! 聖霊の働きには決して無駄がありません。繰り返し申し上げます。聖霊による働きは決して無駄がないのです。怖がってはいけません! 私たちの内に宿るのは、力の霊なのです。


聖霊は愛の霊でもあります。愛というと誤解されることがあるのは、夫婦間や親子間の愛を思い浮かべるからです。しかし、全く違います。神様の愛は感情や気持ちというものをはるかに超えたものなのです。神様の愛は力強い約束です。

恐れてはいけない! 力の霊が内に宿ってくださるのだから

神様は人間を愛し、私たちを救い、ご自身との交わりに導くために、手を尽くしてくださいます。神様の愛は強い決意であり、約束です。神様の愛は自己犠牲的であり、自己犠牲的な力です。これが神様の愛です。神様の愛は感情や気持ちというものをはるかに超えたものです。


「この愛は、聖霊の証印を押していただいた時に、私たちの心に注がれた」とパウロ言っています。私はこの表現が好きです。注がれたのです。神様の愛が私たちの心に注がれたのです。ほんの数滴ではありません。私たちの全身、感情、魂に浸透するように、私たちの心に注いでいただいたのです。神様は、人間が受け取ることのできる最大限のものを私たちに与えてくださったのです。


神様の愛は聖霊を通して私たちの心に注がれています。そして、いったん私たちがこのことに気づき、信じることができれば、私たちの対応は極めてはっきりします。慈しみ深く恵み深い神様をありがたく思い、神様を愛します。神様の私たちへの愛はあまりにも大きいので、私たちはその愛にお返しをせずにはいられないのです。ですから、私たちが神様のためにすることはすべて、感謝の気持ちによるものです。これが私たちを強くします。私たちが奉仕するのは、強制されてではありません。愛と感謝から神様に仕えさせていただくのです。


そして、愛と感謝が動機となって、私たちが奉仕をするならば、人の反応に左右されることはありません。人が感謝してくれるかくれないかに左右されることもありません。働きの出来具合に左右されることもありません。名誉を得るか否かにも左右されません。すると、私たちの奉仕は本当に揺るぎないものとなります。そして何があろうと、つまり人が何をしようと、感謝されようとされまいと、批判されようとされまいと、うまくいこうといくまいと、どうでもよくなります。私たちは愛と感謝から、主のためにします。これによって私たちは強くなり、何があろうと奉仕できるようになるのです。


私たちは、イエス様が期待される通りに、仕え、愛します。他の人々の救いに貢献することが、私たちの願いです。私たちは、他の人々が私たちと同じ恵み、同じ賜物を受け、神との交わりに入ることができるようになることを願っています。そのために、私たちは教会で主に仕えます。そして主に馳せ参じたいと願うすべての信徒が、いつも救いを受けられるようにしたいと考えています。イエス様に向かわせることを人に強制するのが、私たちの務めではありません。しかし、ひとたびイエス様の許に行くことを決めたなら、神様の奉仕を体験し、宣教される福音を聞き、罪を赦していただき、サクラメントを受け、神の子たちと交わりを持ち、神様を中心にしたその臨在を体験できるようにすることが、私たちの務めとなります。

兄弟姉妹の皆さん、これがキリストの教会で、それぞれがそれぞれの立場で奉仕する、そもそものきっかけです。私たちが主に仕えるのは、主に感謝するため、愛と感謝を表すためです。私たちが主に仕えるのは、隣人を愛するためであり、私たちの務めとは、何があろうと、教会で救いが常に受けられるようにすることです。以上が、愛の霊です。


今回の聖句で言及されている、聖霊が持つ三つ目の特徴は、思慮です。他の聖書訳では、知恵の霊、あるいは―個人的に好きな訳ですが―自制の霊と訳されていますが、意味はほとんど同じです。思慮、自制、知恵。聖霊は思慮の霊です。聖霊は私たちにこう気づかせてくださいます。「心配しないで、あなたがたはただの道具にすぎない。実際の働きは神が行う。あなたがたはただの僕なのです。」主は私たちの補助を頼りにしておられるわけではありません。私たちが主に仕えるのは、イエス様と似た人になりたいからです。聖霊が語られることに耳を傾けるなら、思慮深くなり、傲慢になることはありません。


思慮は、私たちすべてに必要です。主使徒、教区使徒、兄弟、姉妹、お子さん、少年…皆に思慮が必要です。私についての思慮でなく、神様についての思慮です。私はただの僕に過ぎません。このことを私たちは何年も説いてきましたが、「自分は本当に思慮深くなったのか。本当に思慮深くならなければいけないと思っているか」と私自身感じることがあります。働いているのは、神様であって、私たちは道具に過ぎないのです。


さて自制の霊とはどういう意味でしょうか。これは簡単に説明できます。聖霊は「あなたが人からしてもらいたいと思うように、あなたも人にしてあげるよう心がけなさい」と教えておられます。目新しいことではありませんが、本当にそう心がけているかどうか、考えてみましょう。心がけているなら、自制心があると言えます。自制の霊は、非常に助けになります。


今度は知恵の霊です。聖霊は、試みを受けたイエス様になさったのと同様に、私たちが霊を見分けられるようにしてくださいます。悪魔がやって来て、イエス様への誘惑を試みました。イエス様は聖書を引用されました。想像してみてください! 悪魔は聖書を自分勝手に解釈していました。そしてその勝手な解釈でイエス様の御前に現れました。しかしイエス様は聖霊の助けによって、その解釈が御父の御心ではないことを認識できました。また、悪魔の考えも見抜くことができました。たとえ聖句を引用しても、悪魔が良くないことを考えているのは明らかでした。


愛する兄弟姉妹の皆さん、私たちも同じです。私たちは聖霊の賜物をいただいています。聖霊は私たちの心に宿り、礼拝での説教を通して教えてくださいます。様々な霊が聖句を引用しても、聖霊を活用させていただき、それらの霊を見分けましょう。「聖霊から出るものは、平和、愛、喜び、優しさ、自制を生み出す」とパウロは定義しています。ですから、何かが起こったり、語られたり、広まったりする時には、必ず確認してください。もしそれが聖霊から出たものであれば、平和、愛、喜び、優しさ、自制を生み出します。聖霊から出たものを道具とするなら、力、愛、思慮、知恵、自制の霊を様々な霊と区別することはとても簡単です。


愛する兄弟姉妹の皆さん、以上のことを一言で申し上げれば、私たちの目標は、イエス・キリストとの永遠の交わりに入ることです。この交わりに入るためには、イエス・キリストに似た人とならなければいけません。イエス・キリストこそ、愛し、仕えてくださるお方です。私たちは聖霊の賜物をいただいていますから、主に仕え、神様に仕え、力と愛と知恵の霊をもって、教会で仕えることができます。神様は私たちがイエス様に似ることを望んでおられます。ただ一つだけ疑問があります。皆さんもイエス様に似ることを本当に望んでいますか。


ジョン・シュナーベル、ペーター・ランバート両教区使徒補佐による奉仕〔説教補佐〕の後、主使徒は次のように続けました。冒頭で申し上げたように、聖霊降臨記念日は、聖霊の使命と働き、そして降臨の意義について考える日です。聖霊は神様の愛、イエス・キリストの愛を私たちに明らかにしてくださいます。聖霊は、イエス様がどれほど偉大なお方であるか、イエス様の愛がどれほど偉大なものであるかを私たちに教えることによって、私たちの内に、ますますキリストに似た人になりたいという願いを目覚めさせてくださるのです。

聖霊はさらに、何が神様の御心に適い、何が神様の御心に反するかを教えてくださいます。すると、イエス様に似ることがいかに大変かが分かります。勇気を失い「そんなことは絶対できない」と思うこともあります。自分たちの力でイエス様に似た人になって、イエス様のように愛し、イエス様のように仕えることは、絶対できません。そこに慰め主である聖霊がおいでになり、私たちにこうお告げになります。「恐れることはない。罪の無い人になる必要はない。そのような人になることはできないのだ。イエス・キリストだけが罪のない唯一の人だった。あなたはキリストの愛の中で成長すれば良いのだ。」


聖霊は私たちを補佐してくださいます。正しく祈り、救いのために意味のあることを求めることができるように補佐してくださいます。完全になることを祈り求めてはいけません。意味の無いことです。むしろ、神様と隣人への愛が育まれることを祈ってください。


私は今週、ある賛美歌に思いを馳せました。それは「主よ、もっとあなたを愛します」という賛美歌です。聖霊に鼓舞された素晴らしい祈りの歌だと思いました。この賛美歌は、ほとんどすべての言語に訳されています。最初の節を読んでみましょう。「主よ、もっとあなたを愛します! 主よ、私の声をお聞きくださるよう祈ります。主よ、もっとあなたを愛します! ああ、救い主よ、もっとあなたを愛します。もっともっとあなたを愛します。もっともっとあなたを愛します。」聖霊が私たちを鼓舞し、この祈りが私たちの魂に、心に深く浸透するように、どうか時間をかけてください。オルガニストがこの曲を演奏してくれますので、私たちは着席したままでいましょう。

 

まとめ

  • 私たちは御霊の証印を信じます。
  • 神様は聖霊の力を用いて、私たちを備えておられます。
  • 私たちは恐れません。聖霊が私たちを強くし、愛を可能にしてくださるからです。