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古い物事を克服する
親愛なる兄弟姉妹の皆さん
洗礼や堅信礼を受けたとき私たちは古いアダムという殻から抜け出ることを誓いました。信仰と従順をもって神様に従い、悪を捨てると公言したのです。
これは、私たちがイエス・キリストに倣(なら)う決意をしたときに可能になります。イエス様は、荒れ野で悪魔に誘惑されても、神様の言葉を守り、従順であり続けました。最後まで御父を信頼し、十字架上で苦しみの絶頂に遭われたときでも、「私の父は私を愛してくださる」と確信しておられたのです。
こんにち、キリストが私たちに語ってくださることに、従順になり、信頼して耳を傾けましょう。例えば、主は私たちに、まず神の国を求めなさい、と言っておられます。目標は地上での人生ではなく、永遠の人生なのですから、地上のものを大切にし過ぎてはいけません。
さらに、一人ひとりが成長することも必要です。私たちは、神様からいただいた賜物を活用しなければなりません。最後まで信仰を守り貫くために、奮闘努力しなければならないのです。
これは、隣人より偉い、優れているという意味ではありません。人はしばしば、他人よりも多くのものを欲しがります。神様の御国にそのようなものはありません。
兄弟姉妹の皆さん。イエス・キリストと、イエス様が教えてくださることに、皆さんの心を開きましょう。
敬具
ジャン=ルーク・シュナイダー
奉仕と統治のために召される
「今年、主は私たちの現在と未来における召命、すなわち、キリストに奉仕し、キリストと共に統治することに注意を向けておられます」とスイスのユルク・ツビンデン教区使徒は述べています。ヨセフの話を用いて、今年の標語を解説します。
私たちは、今からキリストの僕(しもべ)でありたいと思います。キリストは、私たちが日常においてキリストの福音に適(かな)う人生を送り、神様の愛が非常に偉大であることを周囲の人々が分かるようにしてくださいます。マタイによる福音書24章12節で、イエス様は「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」と現代を暗示しておられます。つまり、不法がはびこるところでは、人々は三位一体の神様を軽んじ、隣人をも軽んじるようになるのです。そこで、私たちが奉仕することで、神様からの無条件の愛と神様への信仰に人々の目を向けさせることが大切なのです。
また、私たちはこんにち、統治するよう召されています。キリストの助けを借りて、私たちは自分の思考や行動を支配するように努めます。結局のところ、重要なのは隣人に圧力をかけることではなく、自分自身の生き方を管理し続けることなのです。
ヤコブの息子であるヨセフは良いお手本です。ヨセフについては、創世記39章以降に書かれています。彼は、エジプト人の役人で親衛隊長のポティファルに奴隷として売られました。ポティファルは、神様がこの若者と共におられることを知り、自分の家全体と所有するすべてのものをヨセフに監視させました。ヨセフはポティファルにしっかり仕え、神様はヨセフと共におられ、彼を祝福されました。ヨセフは顔立ちが良かったので、しばらくしてポティファルの妻は彼に目をつけ、誘惑しようとしました。しかし、ヨセフは彼女の誘いをかたくなに拒み、こう言いました。「一体どうしてそのように大それた悪事を働き、神に罪を犯すことができましょう。」ヨセフに拒まれたポティファルの妻は怒り、ヨセフが自分を弄(もてあそ)ぼうとしたとの嘘(うそ)の訴えをしました。ヨセフは神様を信じて自らの清廉潔白を期すため、牢獄に入れられました。しかし、投獄されても神様はヨセフと共におられました。釈放後、ファラオは彼をエジプト全土の責任者とし、宮廷を治める者としました。
この聖書の物語と、神様を信じ、神様に仕え、誘惑に屈しなかったヨセフについて、少し考えてみましょう。
ヨセフの人生と同じように、すべてが期待通りにいくとは限りません。昨年のクリスマスの少し前に、ルーマニアにある二つの会衆を訪ねようとした時に、私はこのような目に遭いました。忍耐という神様からの鍛錬を特別に受ける必要がありました。チューリッヒで大雪が降ったため、ミュンヘンでの乗り継ぎ便に間に合いませんでした。私はルーマニアの兄弟姉妹にどうしても役奉仕したかったので、夕方遅くの飛行機に乗るために、サービスカウンターで待つ数百メートルもある旅行者の大行列に並びました。長く待っている間、興味深い会話が交わされ、信仰の証しをする機会もありました。八時間以上も待たされた挙句、私が受け取ったのは、なんとホテルの宿泊券と、翌日に電車で帰国してほしいとの勧告だけでした。私がどれほど思い悩んでいたかは、皆さんも想像がつくと思います。さて、いよいよ年間の標語を実践する時が来ました。キリストのおかげで、私は心の中の様々な感情を理解でき、また、適切な方法で神様に奉仕できるようになるための条件を作り出すことができました。
キリストと一緒にすることになるすべての務めに、今のうちに備えることができるのは、うれしいことです。
原著:Andreas Rother
https://nac.today/en/158033/1148980
nac.today: the news magazine of the New Apostolic Church International
我々の人生を統治する
今年の標語で、「キリストと共に〔キリストに〕奉仕する」というのは明確ですが、「キリストと共に統治する」のほうは、分かりにくいかもしれません。リュディガー・クラウゼ教区使徒(北東ドイツ)は、統治することの意味を説明しています。
主使徒は、今年の標語として「キリストと共に奉仕し統治する」を掲げました。この標語は、一部の人に違和感を抱かせたことは想像に難くありません。「キリストと共に奉仕する」ということについては、私たち全員が理解、納得がいくことでしょう。しかし「キリストと共に統治する」ということについては、疑問を感じ、おそらくは不安な気持ちにもなるかもしれません。統治というのは、支配、指示、さらには審判を意味します。また、管理、あるいは命令という意味もあります。このようなことは、私たちの信仰理解にはあまり含まれておらず、少しはっきりさせる必要があります。
主使徒の思いは、平和王国に向かっています。そこでは、私たちがキリストと共に統治することになります。しかし、標語で「奉仕する」が一番目に掲げられていることを、私は重要視しています。奉仕は、当然支配や指示という文脈でも明確に示されています。平和の王国で、福音を宣べ伝えるということです。「世界を支配するのではなく、キリストの至上性を証しすることである」と主使徒は述べております。キリストによって携挙[1]された人々が福音を宣べ伝えることを、誰も止めることはできません。そこに、支配力の強さがあるのです。義に適ったことであるなら、誰もそれを止められないのです。
このことは、こんにちにおける私たちの生活にも影響を与えます。私たちはこんにち、礼拝の中で、あるいは様々な支援活動を通して、そして少なくとも犠牲を通して奉仕しています。私たちは隣人を受け入れ、愛で満たすことによって奉仕するのです。それだけでなく、こんにちの私たちの生活において、統治するということは、私たち自身の生活を支配し、キリストの御旨に従うということでもあるのです。
このように考えると、ここで言う支配が一般の意味と別質であり、厳格な専制的独裁的支配とは関係ないことになります。こんにちにおいても、また平和王国においても、キリストの戒めを実現させるという意味合いの中で論じられることなのです。そして、この戒めは戒めであることに変わりはないため、信仰の目的を達成するための律法なのです。
[1] キリストが再びおいでになった時に、キリストの祭司となること。
サクラメント(58): 死体はものを食べないからである
代理の受洗は、故人を救うという新使徒教会の概念を、聖書という側面から支える柱です。そして、いつものように、司教会議がそれを禁じたと言われていますが、これは正しくありません。今回は、代理の受洗が決定された背景と過程を紹介します。
キリスト教の最初の数十年において、代理洗礼の習慣が現れたことを、前回のこのシリーズで論じてきました。場所によっては、教会員が故人の代わりに洗礼を受けることもありました。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一の中で、そのことを証言し、教会教父テルトゥリアヌスは、2世紀に代理洗礼について報告しています。
4世紀以降に著されたいわゆるアンブロジアスター*[1]によるパウロ書簡の注釈書もこの代理洗礼に触れています。それによると、新約時代の人々は「洗礼を受けなかった人が全く復活しないかまたは復活して裁きを受けることを恐れて、この世にいる人が死者の代わりに洗礼を受けた」のだということです。
パウロもテルトゥリアヌスもアンブロジアスターたちも、代理洗礼のきっかけやその執行を非難しなかったのに、代理洗礼は禁止されてしまいました。
禁止令をよく読んでみると
故人の代理洗礼が禁止されたのは、397年のカルタゴ公会議においてでした。この手のことは、議論すらされないのが普通です。しかし、これは表面上のことでしかありませんでした。
北アフリカの司教による地域会議で実際に決まったのは、次の通りです。「主は『取って食べなさい。しかし、死体は取ることも食べることもできない』と言われたのだから、死者の遺体に聖体を与えてはならない 。 そのため、バプテスマも放棄すべきである。」
ですから、397年のカルタゴで問題視されたのは、代理洗礼、つまり存命者が死者の代わりに行うことではなかったのです。この会議で禁止とされたのは、厳密に言うと、聖体拝領や洗礼を死者の「遺体」に施すことでした。
この禁止令は、419年に同じカルタゴで行われた司教会議で、15回にわたる会議を経てほぼ同じ文言で批准されました。しかし、遺体に洗礼を授けるという、急に出てきた発想はどこからやって来たのでしょうか。
異端者との戦いの中で
洗礼志願者が受洗前に死亡すると、その遺体の下に存命者が横になりました。遺体に向かって「洗礼を受けたいか」と尋ね、存命者は受諾の返事をし、代理洗礼を受けました。そして、神父は務めを行いました。
初期ローマの異端教会であるマルキオン派では、このようなことが行われていたと言われています。少なくとも、教父ヨハネ・クリソストムはそう報告しています。また、サラミスの司教エピファニウスとブレシアの司教フィラストリウスも、初期キリスト教においてケリントス派とモンタノス派という分派が生じた傾向について、同じような話をしています。
こうした論文は、共通点として、すべて4世紀頃に書かれています。しかも、異端者や偽教師に対抗するための異端論や闘争の書物の一部であって、必ずしも死者の洗礼に関するものではありません。
数ある紛争の中の一つ
背景には、むしろ教会史の重鎮たちが、神学上の非常に大きな問題をめぐって論争を続けていたことがあります。事実、議論の口火を切ったのは、3世紀の神学者であり哲学者だったアレクサンドリアのオリゲネスで、5世紀にヒッポの教父アウグスティヌスによって事実上終焉を迎えました。
憐れみ深い神様は本当に人を永遠に罰したいと思っておられるのか。それとも最後は皆救われるのか。救いは生前にしか得られないのか。それとも死後も可能なのか。キリストが陰府の最も低いところに降りられた時、旧約の義人だけを救い出されたのか。それとも改宗した罪人や異邦人も救われたのだろうか。―疑問は次々に生じました。
よくあることでしたが、クリソストムも属していたアウグスティヌスの陣営が優勢でした。この陣営は、「神は永遠に罰する、救いは現世にしか存在しない、イエスは正しい者を助けただけである。だから故人のための代理洗礼は許されない」と考えていました。
長く守られた風習
しかし、そのような風習はそう簡単にはなくなりませんでした。6世紀、ルスペの司教フルゲンティウスは、「死者はなぜ洗礼を受けられないのか」という論文を書かざるを得ませんでした。
「受洗前に死亡した子供や死産児に対しては、民衆の敬虔な心が奇跡的な一時的蘇生によってこの禁止令を回避することがあった」と、有名な百科事典「歴史と現在の宗教」に報告されています。それによると、この習慣は「初代教会から近代まで」続きました。
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死産をきっかけに、当時まだ設立間もなかった新使徒教会に動きがありました。この動きの結果として、故人のための正式なサクラメントが行われたのです。これについては、次の(59)で扱います。
原著: Andreas Rother
https://nac.today/en/158033/1059811
nac.today: New Apostolic Church International
[1] アンブロジアスター…注釈書を執筆した人たちの匿名。
サクラメント(59): 故人のために使徒が手を差し伸べる
故人も救われるのか ― これはキリスト教成立以来の問題ですが、新使徒教会の、これに対する答えは、そう新しいものでない一方で、珍しいものです。それは、故人のためのサクラメントがどのようにして生まれたか、ということです。
「1870年、聖書についての議論と研究の後、故人(ボッシュ兄弟の子供)のために初めて御霊の証印が行われた。二度目はマインダース兄弟の子供のために行われた。」 ―新使徒教会では、本当にそんなに早くから行われていたのでしょうか。
様々な史料
実際、歴史家によれば、このようなことが行われたのは1872年から、とのことです。これは、主使徒ヘルマン・ニーハウスが、1927年と1928年に行われた故人のための礼拝で語った記憶に基づいている。しかし、これは最初の聖なる行為そのものというよりも、当時使徒を指導する立場にあった、使徒フリードリヒ・ヴィルヘルム・シュヴァルツがこの方向で考えていたことでした。
1870年の具体的な情報は、フェルクルイゼン社から出版された使徒シュヴァルツの記念誌で知ることができます。ニコラウス・ヨハネス・フェルクルイゼンは、アムステルダムの会衆が軌道に乗った当時の中心的存在でした。その記念誌には、故人のためのサクラメントに参加したことが記録されています。
歴史を書き換える必要があったのでしょうか。その必要はなかったでしょう。ニーハウス主使徒とフェルクルイゼン牧者が示した年代の食い違いは、この件に限ったことではありません。そして、客観的で信頼できる情報源は、今のところ見当たりません。
定期刊行物での報告
しかし、確かなことは、遅くとも1874年までには、オランダの教会では、故人への御霊の証印は事実上、普通に行われていたということです。これは、教会の礼拝や信徒生活のニュースを掲載した定期刊行物「De Herinnering〔「記録」〕」からも覗(うかが)い知ることができます。
この出版物には、故人のための御霊の証印が何度も行われた、と記録されております。例えば1874年4月には、「多くの故人が火と御霊のバプテスマを受けた」とあり、同年5月には、「昇天日に、四人のキリスト者が御霊の証印を受け、その後多くの故人が受けた」と書かれているのです。
すでに1月にシュヴァルツ使徒は、陰府と秘跡についての考察を解説しています。その中で次のように述べています。「だから、故人に代わってバプテスマを受けたい人は、水と火のバプテスマを最優先に信じなければならない。しかし、まだ懐疑的な人、信仰に確固としたものがない人は、それを行ってはならない。」
歴史の始まり
しかし、年代の違いに関係なく、こうした様々な史料は共通の事柄に集約しています。それは、個人的な運命の一撃、特に洗礼を受けていない子供の死が、非常に具体的かつ身近な形で故人の救いを問題提起していることです。
その答えは、二つの方法で見つけることができます。一方では、御霊の証印が行われた礼拝で、故人が使徒の按手を受けるために、その場にやって来たのを、一部の信徒が幻を通して目撃しています。他方では、聖書の記述です。例えば、コリント信徒への手紙一15章29節で、使徒は故人の代理として行われる洗礼(「コミュニティ」) 4号参照)を扱っているのです。
シュヴァルツ使徒に続いて、メンホフ使徒、クレプス使徒も故人のための御霊の証印を行いました。しかし、これは波乱万丈の歴史の始まりに過ぎないのです。これについては、次号で扱います。
原著: Andreas Rother
https://nac.today/en/158033/1059821
nac.today: the news magazine of the New Apostolic Church International
サクラメント(60): 陰府の領域に対する秩序立て
波乱の幕開けでした。しかし、新使徒教会は一歩一歩、故人のためのサクラメントに秩序を立てていきました。現実的な部分が整うと、理論もそれに追従していきます。ここでは、その歴史を早送りで紹介します。
当初、故人のためのサクラメントは、かなり陶酔的なものでした。使徒が水や御霊のバプテスマを行うかどうか、それをいつ行うかは、会衆の預言によって決定されていました。誰が誰の代理となるのかも、陶酔状態で見る幻によって決定されました。初期の頃は、ルターやカルヴァンなどに御霊の証印を行ったつもりになっている人々も現れました。
信仰の母と任に就く器たち
1910年前後の10年間は、その熱狂が一段落した時期でした。そして、サクラメントを受ける故人の名を一人ずつ読み上げる習慣も、少しずつ廃れていきました。主使徒ヘルマン・ニーハウスは、クリスマスの翌日や1920年代には聖霊降臨祭の週の月曜日にも定期的に故人のための礼拝を行っていました。
そして使徒会議では、誰が故人に変わってサクラメントを受けるかという問題が解決しました。つまり、二人の「職務の器」つまり教役者が「籠の役目をする」ことになったのです。通常、女性の故人には一人の女性、男性の故人には一人の男性で、ほとんどは執事と当時存在した女性執事のうち最年長の者が受洗者の指名を受けました。洗礼には、「信仰の母」と呼ばれる二人の女性が必要でした。また、幼くして亡くなった子供の場合は、両親が受洗することも許されました。1930年以降、故人のためのサクラメントは、二名の教役者のみが受けるものとされました。
年に三回、二人で祭壇に立つ
この二名の代理を立てる形式が確立したのは、オランダの資料によると1886年から執り行われていた「故人のための主の晩餐」でした。これについては、1898年に主使徒フリードリッヒ・クレプスが規定を設けました。パンを受け取る教役者と、ぶどう酒の入ったいわゆる「聖杯」を受け取る教役者という、二人の「職務の器」が設けられたのです。新使徒教会が採用している、パンとぶどう酒を合わせたウエハースは、当時まだありませんでした。
この時以来、故人のための主の晩餐は年に三回執り行われることになりました。この形式は、半世紀を経てもなお採用されました。1954年、ヨハン・ゴットフリート・ビショフ主使徒は、故人のためのサクラメントについて、こんにち採用されているスケジュールで行うことを定めました。そして彼は、初代主使徒のフリードリヒ・クレプスと同じように、出エジプト記34章23節に書かれている「契約の義務」をその依拠としたのです。
救いに向かう過程を明確化
1898年、1910年、1954年に続き、2001年は、新使徒教会の理解する故人の概念を巡る歴史において、四番目の大きな節目となりました。「故人のための礼拝に先立って主使徒が特別に祈ることによって、祭壇や御国に向かわせる強制力はない」ということが、当時の教義書で声明として出されたのです。
クレプス主使徒は、陰府の領域における天国への鍵が開放されることを、当時述べていました。ビショフ主使徒は、故人のための礼拝における開会の祈りで、このことを礼典として宣言していました。シュミット主使徒は、世界各地の時差を考慮して、この行為を前日の夕方まで延期しました。ウルヴィラー主使徒は、故人が時空に縛られない存在であることを悟ることができました。主使徒フェーアの時代には、『命の言葉2001年特別第三号で、こう明確にされました。「陰府の領域は、イエス・キリストのなさった唯一かつ永遠に有効な犠牲によって開かれるのです。」
理論と実践の狭間で
さらに触れる必要があるのは、2005年に「新使徒教会が考える死後の生命」というパンフレットが発行されたことです。こうした問題を取り上げた最初の教義書として発行されたLichtblicke ins Totenreich「死者の領域への洞察」(1905年)、Das Leben nach dem Tode「死後の生命」(1935年)に続き、70年ぶりに教会の教義的見解を発表したものでした。
先達が、おもに信徒の体験談をもとに故人の概念を構築したのに対し、「新使徒教会が考える死後の生命」は聖書からその教えを導き出そうとしたのです。しかし、このパンフレットは教義的な主張をするものではなく、もっぱら当時の教えと実践をまとめたものでした。
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このように、このパンフレットは、私たちの信仰大全すなわち2012年に出版された「新使徒教会教理要綱」発刊への重要な一歩となり、陰府の領域について神学的に責任ある方法で提示するという方法を完成させました。現在、どのような形で実践されているかは、次号でご紹介します。
原著: Andreas Rother
https://nac.today/en/158033/1059831
nac.today: New Apostolic Church International