18. 4月 2022

イエス様が弟子たちと食卓を囲み、杯(さかずき)を隣の人に渡すと、その人もまた隣の人に渡す、というように、全員が飲み終えるまで杯を渡し続ける ― 素晴らしい情景です。カナダ教区を管轄するマーク・ウォル教区使徒にとって、これは2022年の標語につながる具体的な概念です。

 

ヨハネの手紙一1章7節には次のように書いてあります。「しかし、神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」
この聖句が伝えていることの一つは「キリスト(光)と交わりを持ちたい(歩みたい)ならば、キリストの体と血を一緒にいただく必要がある」という事実です。

最近、主使徒はある礼拝で、主イエスが主の晩餐を執り行われた時に、弟子たちが体験したことについて取り上げました。イエス様はパンを裂き、それを弟子たちにお与えになり、ぶどう酒の杯を最初の弟子にお渡しになり、その弟子が次の弟子に渡して、全員が飲み終えるまで飲ませられました。一つのパンと一つの杯が全員を巡り、各自が飲み、仲間の弟子たちと一緒に食べたのです。主の民はこのキリストの体と血を一緒にいただくのです。なんと素晴らしい情景でしょうか。

生きるために必要なものの循環は、私たちの体を循環する血液に例えることができます。体のあらゆる部分から毒素や老廃物を集めて取り除くことで浄化する血液は、酸素を与え、栄養分を補給し、命を与えるものを届けるものであり、体の小さな構成要素にさえ不可欠なものです。同様に、キリストの血は、私たちの永遠の命と神との交わりのために必要なものを清め、供給します。私たちは、キリストにあって共に、神様のご奉仕である礼拝の中で聖餐に与り、キリストの体と血を一緒にいただくのです。

使徒パウロはコリントの信徒への手紙一11章23~30節で、聖餐にふさわしく与ることの必要性を指摘しています。謙虚な姿勢で一致をもって、キリストの犠牲に思いを馳せ、キリストの再臨を待望しつつ、主と一緒に、そしてお互いと一緒に、食卓に集います。自己を点検し、悔い改めの念と変わろうとする願望と赦し合おうとする意志をもって聖餐に参加することが必要です。そうするならば、キリストの体と血によって、勝利するためのイエス様の力が私たちの内を循環します。その力が主への信仰と希望と愛に酸素を供給してくれるのです。

私たちは、パウロが30節で言っているように、霊的に弱く病んだ者ではなく、生き生きとした者となります。キリストの血が私の内に循環すればするほど、私たちは健康になります。一方で、自分たちの個性や重要視することをあまりに強く主張すると、キリストに入っていただくことが難しくなり、私たちは弱くなります。聖霊はこのことを、バプテスマのヨハネの口を通して明らかにされました。「あの方は必ず栄え、私は衰える。」こうした状態ならば、キリストの体(つまり教会、会衆)は健康です。キリストが見える形で臨在し活動されている会衆の中で、キリストにあって互いに共にいることが、私たちの切なる願いです。

原著:Mark Woll

https://nac.today/en/158033/1046251

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