2023年1月27日 19:48:00 JST

すべてを失い、信仰の兄弟姉妹のもとに避難しました ― ユダヤ人の血を引くエルンスト・カウフマンが生き延びたのは、新使徒教会とつながりのある人々がゲシュタポから彼を匿(かくま)ってくれたからです。毎年1月27日の「ホロコースト犠牲者を追悼する国際記念日」にちなんで、彼の略歴を紹介します。

ドルトムント、ローランドシュトラーセ25番地。二人の男は予告なしにやってきました。彼らはルイーズとエルンスト・カウフマンの家を捜索した。そして、彼らが探していたものを見つけました。それは5930ライヒスマルク→の入ったブリーフケースと2000ライヒスマルクの価値のある家族で持っていた宝石類です。二人はそのすべてを持ち去りました。

夫婦は逆らえませんでした。夫婦はなすすべもなく、奪われるのを見ていました。二人の「紳士」はゲシュタポ(秘密国家警察)の人間でした。1936年のことでした。この年、エルンスト・カウフマンは職を失っていました。収入もなく、資産もない状態でした。

決断力と実行力

エルンスト・カウフマンは、早くから決断力を発揮し、実業家として成功を収めていました。中等教育を受けて卒業証書をもらい、ケルンで商業の見習いをしていました。第一次世界大戦中、彼は徴兵されました。1916年のことで、その時彼はすでに40歳になっていました。戦後、彼はドルトムントに生地屋を、ブランバウアーに二軒目をオープンしました。彼のもとでは二十人もの販売員が働いていました。

1925年、彼のビジネスは危機を迎えました。しかし幸いなことに、新しい展望が開けました。彼はある会社に雇われ、電気治療器を販売し、大金を手にしました。しかしその成功にもかかわらず、1936年の夏、エルンスト・カウフマンは解雇されました。それは、彼の全財産が盗まれたのと同じ年でした。そして、この二つの出来事には同じ理由がありました。

仲間はずれにされ、敵視され
エルンスト・カウフマンは、ユダヤ人の血を引いていたのです。1935年に制定された「ドイツの血と名誉を守るためのニュルンベルク法」は、彼の成功の終わりを告げるものでした。この法律は、ドイツ社会からユダヤ人を排除することを目的とした反ユダヤ法でした。国家社会主義ドイツ労働者党〔ナチ党〕が政権を握ると、反ユダヤ主義が政府の方針となりました。

特権的な混血結婚をしたいわゆる完全なユダヤ人である彼は、1941年9月に導入された黄色い星をつける必要がありませんでした。つまり、収容所に強制送還されることも、ゲットーに押し込められることもなかったのですが、それはしばらくの間だけでした。彼のような人たちでさえ、後に強制送還の危機にさらされることになるのです。

ゲシュタポからの逃亡

エルンスト・カウフマンとアーリア人の妻は、次第に疎外され、敵対行為にさらされるようになりました。1944年9月末、エルンスト・カウフマンは、身を隠す以外に道はないと考えました。ゲシュタポは彼を厳しく監視していました。1923年に新使徒教会員となったカウフマンは、おそらくドルトムントの友人であり信仰の兄弟であるハリー・フレンケル→の運命を聞いていたのでしょう。フレンケルは、1944年にはすでにアウシュビッツで殺されていました。

1944年9月末から1945年4月中旬まで、友人たちがエルンスト・カウフマンを引き取りました。この間、いくつかの家庭が彼を引き取り、狭いアパートで彼をを匿い、わずかな食料配給を分け合いました。最初はドルトムントの友人カール・バイヤスドルフの家に、次にリューネンのナタリー・ベッカーとベルンハルト・ベッカーの家に滞在しました。そして、1944年11月末にドルトムント・ヘルデのヒルデ・マイヤーと彼女の両親が彼を引き取りました。最後の隠れ家は、ヘレネ・ヨーンとアウグスト・ヨーンの家族でした。

助かったものの、衰弱したカウフマン

近所の人たちに気づかれないように、みんな気をつけなければなりませんでした。もし、近所の人に見つかったら、間違いなく殺されます。しかも、どこにでも密告者は潜んでいます。ただ、危険ではあったものの、移動が多かったので、発見されることはありませんでした。アメリカ軍が到着して初めて、エルンスト・カウフマンは隠れ家から出る勇気を得ました。

こうして彼はゲシュタポによる逮捕と収容所での死から逃れることができたのです。しかし、彼の生活は長い間貧しく、病気がちでした。1955年6月16日、ようやく補償の決定が下されましたが、彼はその13日前に78歳で亡くなっていたので、すでに手遅れでした。

協力者のネットワーク

彼を救ったのは誰でしょう。それは、いくつかの家族とその協力者たちによるネットワークです。彼らはすべて彼の教会に属していました。教会の記録と市民文書がそれを証明しています。

家族や仲間から報告されたように、教会の指導者は救出作戦を承知していました。まず、支援を約束していたヘルマン・ディートリッヒ・マグニー教区使徒です。そして、救出作戦の最中は、彼の後継者であるペーター・クーレンが引き継いでいました。

彼を匿っていた人々は、信仰の兄弟である彼に命をかけていました。カウフマンの発見が、自分たちの死を意味していたのです。エルンスト・カウフマンの生存は、彼らの抵抗と救出、つまり市民の勇気に負うところが大きいのです。

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エルンスト・カウフマンの運命の詳細については、カール・ペーター・クラウス博士の著書「Inszenierte Loyalitäten? Die Neuapostolische Kirche in der NS-Zeit, Berlin 2020」(演出された忠誠心? ― ナチス時代の新使徒教会)で、専門家の間で広く認識されています→。この伝記に関する予備調査はギュンター・テーナー教授が担当しました。

ライヒスマルク…1925~48年までドイツで用いられていた通貨単位

原著: Andreas Rother
https://nac.today/en/157547/1133687→

nac.today:New Apostolic Church International

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