2023年3月1日 19:48:00 JST

主使徒はヨシュアを真の神の僕(しもべ)と表現し、見習うべき模範としました。旧約聖書に登場するこの人物が、私たちの2023年標語「キリストと共に奉仕し統治する」について教えてくれることとは、何でしょうか。

ヨシュアは、モーセとイスラエルの民と共に荒れ野を旅し、神様の約束を信じていました。モーセが亡くなると、彼がその後継者となり、約束の地に入りました。ヨシュアは亡くなる直前、神様が約束を守ってくださったことを、イスラエルの民に思い出させ、こう言いました。「しかし、私と私の家は主に仕える。」

ジャン=ルーク・シュナイダー主使徒は、1月8日にアフリカ・ケニアのナイロビで行われた礼拝で、このヨシュア記24章15節を基調聖句として引用しました。当初、ヨシュアが神様に仕えたのは、神様を信頼していたからです。その後、彼は神様が約束を果たしてくださったことを知り、感謝の念から神様に仕えたのです。

奉仕し統治する

この旧約聖書のエピソードは、こんにちの私たちにもあてはまります。神様は私たちに素晴らしい約束を与えてくださいました。すなわち、神様の御国に入り、永遠に神様に奉仕し統治するという約束です。私たちは主に仕え、主を称え、主を崇(あが)めます。私がよく申し上げているように、一万年後でも神様を称(たた)え神様に感謝する理由があります。さらに私たちは、罪と悪に対する主の支配に、共に参画します。

イエス様による犠牲の御業、神様から選んでいただいたこと、聖餐、サクラメントと、私たちには感謝すべきことがたくさんあります。勝利はすでにここにありますが、この勝利の完全な効果はまだ目で見ることができません。私たちはすでに神の子ですが、どうなるかはまだ目で見ることができません。

何をどのように

キリスト者は感謝と信頼によって、神様に奉仕します。この奉仕を次のようなかたちで表現します。

  • 礼拝への出席。私たちは礼拝に参加し、神様を崇め、その御名を称えます。
  • 御旨を知る。主に仕え、主を知ろうと思うなら、主の律法や戒めを受け入れ、自分の意志より主の御旨の方が大切であるという事実を受け入れます。
  • 人々の助けとなる。人々が神様に至る道を見つけられるように、私たちは役に立ちたいと思います。私たちを通して隣人が神様の愛を体験できることを願います。

キリストと共に奉仕したいと思います。キリストに奉仕する際は、一定の規則に従うのではなく、

  • 愛をもって奉仕すべきです。「最も大切な戒めは、愛の戒めである」とイエス様は仰せになりました。私たちは愛をもって、主に奉仕します。ですから主だけに奉仕するのです。ほかの神、ほかの偶像は必要ありません。
  • 神様の栄光のために奉仕すべきです。キリストと共に、自分の栄光ではなく、神様の栄光のために奉仕しましょう。
  • 神様との交わりを目的として奉仕すべきです。「自分にとって最も大切なのは、キリストと共にいることであって、事がうまくいくことではない。」これが、キリストと共に奉仕するということの持つ意味です。
  • 隣人に罰を与えることなく奉仕すべきです。神様の僕のふりをして、罪人を罰して物事を正すことが自分の使命だと思い込んでいる人が、たくさんいます。しかしイエス様は言われました。「私の国は、この世には属していない。あなたがたに求めているのは、罪人たちを赦すことであって、罰することではない。」
  • 隣人を愛することによって奉仕すべきです。隣人を憎んでいるなら、主に奉仕することはできません。
  • 隣人に仕えることによって奉仕すべきです。主に奉仕するということは、皆さんの隣人の僕になるということでもあるのです。

家全体で主に奉仕する

「私と私の家は主に仕える」とヨシュアは言いました。キリスト者もそうしたいと思います。しかし、隣人に強制的に、主に奉仕させることはできません。すべての人に選択の自由はあります。隣人に、主に奉仕しようとする気持ちにさせることしかできません。これが最も功を奏するのは、私たちが誠意をもって心から、

  • 感謝する場合です。謙虚さから生まれ、すべてが神様のおかげと確信するなら、私たちは心から感謝できていることになります。
  • 忍耐する場合です。たとえ、奉仕の効果が現れるのに長い間待たなければならないとしても、祝福がまだ目に見えないとしても、私たちは確信をもって、神様を信頼します。あきらめないのは、神様が約束を守ってくださることを確信しているからです。
  • 神様を愛する場合です。地上で起こるいかなることも、私たちのキリストへの愛を無きものにすることはできません。
  • 隣人を愛する場合です。心から人々を愛している人は、自分がいただいているのと同じものを―「自分の方が少し多く持ちたい」ではなく―人々に持ってほしいと思います。
  • 犠牲を献げる場合です。誠意を判断するのは、神様と本当の交わりをするために、自発的に犠牲を献げる、「無しで済ませる」姿勢です。

家族の中のきょうだい、両親、あるいは友人たちが、誠意をもって心から主に奉仕しているのを見れば、また自発的にキリストと共に主に奉仕する私たちをを見ることができれば、多くの人々があのイスラエルの民のように反応するでしょう。彼らもまた、ヨシュアのように神様に奉仕したいと思ったのです。

原著: Katrin Löwen
https://nac.today/en/158033/1139546→

nac.today:New Apostolic Church International

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