23. 3月 2023

疲れていました。憔悴(しょうすい)しきっていました。もうどうでもよくなっていました。ただ死にたいだけでした。そんなエリヤが神様との出会いによって新たなスタートを切ったお話です。

「もうたくさんです」と預言者エリヤは言いました。えにしだの木の下に座り、死にたいと思い「主よ、私の命を取ってください」と言いました(王上19:4)。死にたいと思った神の人は、エリヤが初めてではありません。モーセやヨナも同じような思いをしていました。しかし、その理由は三者三様でした。

えにしだの木の下で燃え尽きる

モーセにとっては、失敗を認めるようなものでした。イスラエルの民を従わせるという重荷は、彼にとってあまりにも大きなものとなっていたのです。「私にこのような仕打ちを続けるのなら、むしろ私を殺してください。私があなたの恵みを得ているのであれば、どうか私が苦しみを見ないようにしてください。」(民11:15)。一方、ヨナは、神様がニネベを憐れまれたことに苛(いら)立(だ)ちました。悪人は神から罰せられるべきだという彼の根本的な信念が打ち砕かれたのです。「生きているより死んだほうがましです」(ヨナ4: 3)。

エリヤの場合、疲労と絶望そのものであり、燃え尽き、意気消沈していました。彼は唯一であられる神のために戦い、奮闘し、人々を生かしたり彼らから命を奪ったりし、奇跡を起こし、敵を作りました。そして、そのすべてが無に帰したのです。人々は祭壇を壊し、預言者たちを殺しました。全てが無駄に終わったのです。

天から励まされる

エリヤは身を隠しました。もう一日なんとか歩き通しました。そして横になって眠りにつきました。彼は隠居するために特別な場所を選んでいました。その場所とは、混沌を体現し冥界への入り口である海沿いではありません。そうだとしたら、神様から遠ざかることになるからです。そうではなく、エリヤは砂漠に向かったのです。そこは、火の柱と雲の柱によって民が導きと配慮を受け、マナとうずらを受け取り、岩から水が湧き出る場所でした。

エリヤは意識的にせよ無意識的にせよ、神様の近くにいることを求めていました。そして、その結果、彼は天からの励ましを受けました。「御使いが彼に触れて言った。『起きて食べなさい。』」天使は二度やって来て、エリヤを励ましました。最初、彼は体を動かして何かを食べたり飲んだりすることしかできませんでした。そして、また横になってしまいました。二度目に天使が来て、食べ物をもらい、それを食べると、エリヤは十分な力を得て、起き上がって旅を再開することができました。

神と出会う途中で

この時、神の人エリヤは決意に満ちていました。彼は、砂漠の奥へ奥へと歩いて行きました。神様が近くにおられる場所というより、神様がご自身を現してくださる場所を探していたのです。それがホレブ山でした。ここで、神様はご自身を僕(しもべ)エリヤに現し、民のために御旨を石に刻まれたのです。

必要な時に寄り添ってくださる

エリヤはそれを体験しました。寄り添ってくださるよう神様に求めるなら、神様から励ましていただくことができます。そして、神様に会いに行くために旅を始めた人たちに対して、神様は物事がどのように進んでいくかを明らかにされます。それによって、神様は特に絶望している人たちに寄り添ってくださるのです。「高みにおられ、崇められ/永遠におられる、その名が聖である方が/こう言われる。/私は高く、聖なる所に住み/打ち砕かれた人、低められた人と共にいて/低められた人の霊を生き返らせ/打ち砕かれた人の心を生き返らせる」(イザ57:15)。

「エロイ、エロイ、レマ・サバクタニ。」これこそまさに、イエス・キリストが御旨によって十字架上で磔(はりつけ)にされた時、絶叫なさった言葉です。見ていた人たちは、イエス・キリストが預言者エリヤに助けを求めているのだと思いました。しかし実は、詩編22編を朗誦(ろうしょう)しておられたのです。詩編22編は「わが神、わが神/なぜ私をお見捨てになったのか」と始まり、絶望の淵に立たされます。「私は水のように注ぎ出され/骨はことごとく外れた。/心臓は蠟(ろう)のようになり/体の内で溶けた。力は素焼きのかけらのように乾きき〔った。〕」

しかし結局、重要なのは、神様の寄り添いを体験することなのです。「あなたは私に答えてくださった。」そして感謝することです。「私は集会の中であなたを賛美しよう。」

原著: Andreas Rother, Katrin Löwen
https://nac.today/en/158033/1148868→

nac.today: New Apostolic Church International

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