31. 3月 2023

王の王なるイエス様は、罪人が永遠の死を受けることなく、ご自身が復活することで、彼らが神様との永遠の交わりを希望できるように、ご自身を卑しい者とされ、最悪の犯罪者のような死を遂げられます。四月の礼拝内容をご紹介致します。

 

四月は、棕櫚の聖日、聖金曜日、復活祭〔イースター〕というように、記念日が目白押しです。それ以降の日曜礼拝は「復活節」がテーマです。キリストは復活なさった後も、従う人たちに寄り添い、強めてくださいます。復活節を通して、そのことを明らかにします。

 

キリストは実際どのようにして統治されるか

棕櫚の聖日は、イエス様がエルサレムに入城なさったことと、人々がイエス様に抱いた期待を記念する日です。聖書朗読の終盤で、エルサレムにお入りになったイエス様の歓待ぶりがこう明らかにされます。「主の名によって来られる王に/祝福があるように。」イエス様は、ご自分が王であることに注させながらも、その王権が地上での統治とは無関係であることを明確にされました。このことを人々が理解できたのは、イエス様の友人や親しい仲間でさえも、後から振り返ってのことでした。棕櫚の聖日記念礼拝では、この霊的な次元による神様の御国というものについて考察します。イエス・キリストは王であり、こんにちでも教会を統治しておられます。イエス様の統治は、すべての人に対する愛と恵みによる統治なのです。

 

一人の人間の死

聖金曜日記念礼拝の聖書朗読で読まれる、ルカによる福音書の聖句では、イエス様に死刑を宣告される場面が扱われています。ピラトはイエス様を釈放しようとしましたが、民衆は死刑にするよう主張しました。そのため、キリストは、最悪の犯罪者だけに行われた、特に屈辱的な死に方をなさったのです。罪のないお方が、最悪の罪人と同じように死ぬことを覚悟なさったのです。受難と死の瞬間を、真の人間として生き抜かれたのです。

 

この完全なる犠牲の業は、すべての罪人が救われ、神様との永遠の交わりを持てるようになったことを意味します。私たちは、この恩恵を享受するのに、私たちがイエス様のように死ぬ必要はないのです。唯一の条件は、私たちがイエス・キリストに従うこと、つまり、代わりに死んでくださったイエス様にあって生きることです。

 

神にあって生きる

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」ルカによる福音書から引用される、復活祭記念礼拝の聖書朗読で読まれるこの問いは、キリスト復活という出来事を的確に要約しています。キリストは、地上での務めをなさっておられた時、弟子たちに、死んでも共にいることを明らかにしておられました。

 

そして、主は復活された後、多くの人々に姿を現されました。墓にいた女性たちのほか、エマオへの道で弟子たちと一緒に歩かれ、ペトロや使徒たち、さらには五百人以上の兄弟姉妹が集まる中でもご自身の姿を現されました。

 

その当時と同じように、こんにちも、信じる人たちに会われ、「私が生きているので、あなたがたも生きることになる」ということを確信させてくださるのです(ヨハ14:19)。

 

信頼は疑念に打ち勝つ

復活節の期間に当たる四月第三日曜日の説教は、初代使徒たちの疑念に焦点を当てます。イエス様とごく近しい仲間たちも、様々な証言に基づくイエス様の復活を信じることに、困難さを感じていました。悲しみと絶望に打ちひしがれていた彼らは、自分たちの考える疑念を変えることができませんでした。そこで、復活された主は、彼らの前に姿を現され、「その不信仰とかたくなな心をおとがめに」なりました(マコ16:14)。このように弟子たちが疑念を抱いていても、イエス様は彼らに「世に出て行って福音を宣べ伝える」という重要な使命を託されました。キリストは、当時も今も、疑う者を見放されないのです。

 

神様の行動は、合理的に考えることが全く不可能です。神様を厚く信じることによって、はじめて抱きがちな疑念を克服することができます。しかし、神様の御計画を人々が疑っても、神様の人類に対する愛が揺らぐことはありません。

 

未来の自分への問いかけ

「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私は、その罪人の頭です」(一テモ1:15)。第四日曜日の引用聖句では、すべての人に恵みを与えようという神様の御旨と、イエス様が主であることを公に広めることの必要性が強調されています。

 

キリスト教徒を迫害する者が、イエス様と出会い、その後は主のために戦う者に変わりました。パウロは自分を罪人と見なし、キリストが救い主であることを公に広めました。

 

神様は、パウロのように、ご自分に仕えるよう罪人に呼びかけておらます。そして、パウロのように、呼びかけられた者たちは、悔い改めなければなりません。そのためには、素直になって自らを省み、「自分はどうありたいのか」と自分に問うことが必要です。

 

イエスの御名において境界を越える

今月の最終日曜日は、「大宣教命令」について考察します。キリストは、弟子たちが自分たちの知っているすべての境界や制限を超えて、世界中で洗礼を授け、教えなければならないという意味で、この使命を出されました。

こんにち、使徒たちが教える内容は、常にイエス様が福音書で教えられたことを背景にしているものでなければいけません。イエス様は、「私を離れては、あなたがたは何もできない」と、ぶどうの木のたとえによってこのことを明らかにしておられます。これは、使徒職から送り出されるすべての教役者たちも含まれます。

しかし、この使命を積極的に支える人は、しばしば自分の限界に直面します。そこで、聖句にあるイエス様の約束が当てはまるのです。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタ28:20)。

原著:Andreas Rother
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