2023年4月4日 0:00:00 JST

神様に仕え、御国に入ろうとするなら、聖なる者となる必要があります。もちろん神様によって聖なる者としていただくわけですが、私たちが努力しなければ、うまくいきません。その意味について、最近、主使徒が説明しています。

 

ジャン=ルーク・シュナイダー主使徒がカーボベルデプライアで行った最初の礼拝は、聖別についての内容でした。2月25日の礼拝は、プライアのアチャド・マトで行われました。そして、それは教役者のための礼拝でした。主使徒は、ペトロの手紙一1章15節を基調聖句として説教を行いました。「あなたがたを召し出してくださった聖なる方に倣(なら)って、あなたがた自身も生活のあらゆる面で聖なる者となりなさい。」〔以下、説教の概要〕

 

神様は聖なるお方 ― このことははっきりしています。神様は、私たちが想像できる誰よりも、そして想像できる何よりも偉大なお方です。完全なお方です。そして、私たちを聖なる御国に導くことが御心ですから、私たちは聖なる者となる必要があるのです。

 

神の賜物

聖なる者となることは、神様の賜物です。

 

  • イエス様が私たちのために、命を献げてくださったため、私たちは清めていただくことが可能となりました。
  • 私たちは神様に「サタンと悪を排除します」と約束しました。
  • 神様が私たちの内に据えてくださった新しい被造物がきちんと成長できるようにすることが必要です。

 

召しにふさわしくない

私たちは、自分で自分を選ぶことはできません。神様がキリスト者を選び、聖なる民としてくださるのです。私たちが神様に属していることを、どのようにして見分けられるでしょうか。地上での巡礼者であることを、日々の生活で明らかにすべきです。私たちには違う目的があるのです。周りの人たちは、神の子が神の子であることを本当に理解しているでしょうか。必ずしもそうではない、というのが現実です。まだまだ改善の余地があります。

 

特別な使命

教役者たちは、召しに与ったことによって、職務上の嘱託を通して、特別な使命を受けています。教役職(教職)は聖職であり、その使命は聖なるものです。そして、この聖なる使命を受けたからには、教役者もまた、聖なるものとならなければいけません。これは、聖職に叙任されることによって、人が完全な存在になるという意味ではありません。むしろ、人間ゆえの不完全であるにもかかわらず、教役者の叙任を受けることによって、イエス・キリストの名において完全な働きをできるように、神様が私たちを聖なる者としてくださったのです。

 

ですから教役者は、聖なる者としていただいたことに基づいて、以下のような取り組みをしなければいけません。

 

  • 日曜日を聖としなければいけません。他の日とは違うのです。神様が教役者をお召しになる日なのです! 教役者が神様と出会うのです。
  • 教役者は、謙虚でなければいけません。私たちには、罪の赦しが絶対に必要ですから、隣人の前で謙虚でなければいけません。兄弟姉妹を見下す道理など、私たちには全くないのです!
  • 教役者は、物事をよく考えることが必要です。自分の信仰について、主イエス様について、イエス様の教えについて関心を持つことに、時間をかけることが必要です。
  • 心が素直であることが必要です。主に仕えるのは、お金や、名誉や、高評価が欲しいからではなりません。神様を愛し、兄弟姉妹を愛しているからです。
  • 宣教の純粋性を維持しなければいけません。神様の言葉をきちんと述べ伝えるには、よく祈ることが必要です。選り好みはできません。神様から宣教を命じられている事柄を、自分の好き嫌いに関係なく、宣教しなければいけないのです。

 

職務は二十四時間三百六十五日

私たちは、日曜日の朝に説教をするためだけに叙任されたのではありません。実は、昼も夜も教役者なのです!気楽で楽しい時だけでなく、つらく、多くの犠牲を必要とする時も、主に仕えるのです。

原著:Katrin Löwen
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