11. 4月 2023

聖書の中で、女性が福音を伝えることを実際に禁止しているのは、一カ所だけです。しかし、聖書学者によると、それも使徒パウロから出たものでは全くないということです。これに私たちの教会はこれにどう対処しているのでしょうか。

 

「女は、教会では黙っていなさい。」これはコリントの信徒への手紙一14章34節に書かれている、いわゆる黙っていることを命じている、有名な一節です。しかし、文脈→を見ると、これは女性の宣教活動ではなく、女性が学ぶために質問することについて述べたものであることがわかります。

 

一方、テモテへの手紙一2章12節には「女が教えたり、男の上に立ったりするのを、私は許しません。むしろ、静かにしているべきです」とはっきり書かれています。ギリシャ語聖書で「教える」というのは、すべての国家国民に洗礼を授け教えを説きなさいという、イエス様が弟子に委託された大宣教命令で用いられている「教える」を借用したものです。これを執筆した人物は、女性による福音宣教の禁止を求めているのです。

 

ではこれを執筆した人物とは誰でしょうか。

 

教師の名前で

科学的に立証された聖書解説のほとんどによれば、テモテへの第一の手紙を書いたのは使徒パウロではなく、彼の弟子の一人であることが確実視されています。古代では、学生が教師の名前で執筆することがごく普通に行われていました。それは嫌われることでもありませんでした。

 

異なる作者という仮定は、単なる推測ではなく、検証可能な事実に基づいています。その事実には次のようなものがあります。

 

  • いわゆる牧会書簡(テモテへの手紙一・二,テトスへの手紙)は、ローマ・コリント・ガラテヤなどの教会に宛てたパウロ書簡と、語彙や語順が大きく異なったいることが、統計的分析によって証明されている。
  • 使徒パウロが旅先で経験したこと、旅程など、牧会書簡に書かれている情報が、他の書簡には混在していない。
  • 牧会書簡は、教会への書簡で扱われていない事柄を扱っている。パウロが典型的かつ基本的に、信仰による義に関心を寄せていたのに対し、牧会書簡になって急遽、伝統的な教えを守ることに焦点が当てられた。

 

しかし、使徒パウロが著者でないならば、女性による福音宣教についての記述をどう評価すべきなのでしょうか。

 

権限は神から出るもの

この問いに対して、2021年11月に開かれた教区使徒会議で、以下のように決議→されました。

  • 聖書の実質上の著者は神である。聖書の各書物の権威は、神による鼓舞に基づいたものであり、著者が使徒であろうと預言者であろうと、その人物に依存するものではない。
  • 従って、文言が特定の著者に由来するか否かという釈義的な結論は、そのテキストの権威とは全く関係がない。
  • 使徒職が持つ教役者としての権限は、個別の解釈の問題を解決するためではなく、教会の教理とその宣教の純粋性を確保するために与えられている。

 

つまり、牧会書簡がパウロによって書かれたか、パウロの弟子たちによって書かれたかという問題は、新使徒教会の教義とは関係ありません。牧会書簡は新約聖書の一部であるため、権威があり、拘束力があります。

 

しかし、これで女性教役職叙任の問題が決着したのでしょうか。

 

大切なのは全体像

決着していません。この問題は背景によって左右されるからです。私たちの教会は、聖書のある一節だけに基づいて教義とすることはできません。そのようなことをしたら恣意的なものになります。聖書には、どのようなことでも正当化するのに適した節が、必ず見つかるのです。従って、教義に真剣に向き合うならば、聖書の知見を総合的に検討することになります。

 

その好例がテモテへの手紙一2章11~15節の言葉です。

  • 静かにすべき、との記述は、神の言葉を預言的に語る、つまり宣べ伝えることを認めている、コリントの信徒への手紙一11章5節と矛盾します。
  • 黙っているべき、という戒めの神学的正当性は、ローマの信徒への手紙の記述と矛盾しています。
  • 著者は神様の戒めに従っているのではなく、自分の権限と、当時の社会環境から形成された文化的要求のみに従っています。

 

次回のこのシリーズでは、これらを検証します。

 

原著:Andreas Rother
https://nac.today/en/158033/1148990


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