2023年4月27日 0:00:00 JST
女性の教役職叙任はまかりならぬ?これを裏付ける聖書の一節が、一つだけあります。しかしこの箇所は、他の箇所とそのそれぞれが持つ正当性との矛盾があります。これら聖書の箇所は、結局のところ、文化的な規定でしかないのでしょうか。
「女が教え〔…〕るのを、私は許しません。むしろ、静かにしているべきです。」これはテモテへの手紙一2章12節に書いてあることで、「教える」というのは、イエス様が弟子たちに大宣教命令をお与えになった時にお使いになったのと同じ言葉です。つまり、著者は女性による福音宣教を禁じたいのです。
しかし、コリントの信徒への手紙一11章5節では、女性が ― 頭にかぶり物を着ける→限り ― 礼拝で祈り、預言を語ることをはっきり認めています。そして、預言を語ることは、説教をする、つまり神様の御旨を告げることでもあったのです。
さらなる矛盾
このことは、神学的正当性から見ても矛盾しています。テモテへの手紙は、女性を責めることでその言い訳をしようとしています。なぜなら、「アダムは欺かれなかったが、女は欺かれ、戒めに背いた」からです。これによれば、エバがこの世に罪をもたらしたことになるわけです。
しかし、これはローマの信徒への手紙5章12~21節と大きく矛盾しています。ここでパウロはアダムを、罪の創造者である、とはっきり名指ししています。「これにより、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。ちょうど、罪が一人の人間によって世に入り、罪によって死が入ったように、死はすべての人に及んだのです」。
神の戒めではない
この前提を支持するために、テモテは「なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです」と造られた順序を取り上げています。しかし、順序が評価の絶対的意味を持つというのであれば、神学的に重要な事例と矛盾します。つまり、ヤコブとエサウ、ダビデとその兄弟、そしてアダムと新しいアダムとしてのイエス・キリストです。
確かに人類が創造された初期の記述では「お前は男を求め/彼はお前を支配する」(創3:16)のように、男女の間に階層的な差別が存在します。しかし、これは堕罪の後にはじめて出てきたものですこの記述にある予示→は、神様の戒めではありませんし、男性と女性の平等→を定めた創造主の御旨とも一致しません。
自らの権限で
テモテへの手紙一の論証で特徴的なのは、著者が「女性は沈黙すべし」との規定を、神様の戒めやイエス様のご発言を引用したかたちで正当化しているわけではない、ということです。要は「…を、私は許しません」と自らの権限だけを発動させているのです。
特に、この手紙の本当の筆者は誰なのかが議論→になっているため、なおさら注目されるのです。聖書学者の中は、テモテへの手紙一の筆者が使徒パウロではなく、パウロの弟子の一人ではないかとする仮説が大半です。
社会環境による影響
最後に、驚くべきことに、テモテへの手紙一とコリントの信徒への手紙一に書かれている、礼拝に関する規定の根拠として、当時の文化的、社会的状況が非常に強く頻繁に影響を受けています。髪型については恥や不名誉が論じられたり、服装については礼儀や節操が論じられたりしています。つまり、誰にとって何が適切か、誰がどんな習慣を持っているかを述べているのです。
コリントの信徒への手紙一14章40節に「ただ、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい」と書いてあります。なぜなら「教会全体が一か所に集まって、皆が異言を語っているところへ、初心者か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変になっていると言う」かもしれないからです。(一コリ14:23)。ですから「ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい」(一コリ10:32)というのが、普遍的な規定となるのです。
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全体的な評価から明らかなのは、新約聖書における女性の叙任に関して、福音書と書簡は明確な見解を示していない、ということです。このことから、新使徒教会はどのような結論を導き出すのでしょうか。これについては、このシリーズの次回以降で検証することとします。
原著: Andreas Rother
https://nac.today/en/158036/1154434→
nac.today: New Apostolic Church International