2023年5月18日 19:48:00 JST

終わりが始まりでした。イエス・キリストは天に昇られたことによって、人々から遠ざかったのではなく、実は寄り添ってくださったのです。昇天日は復活節の中の一日です。

 

 

イースターはまだ終わっていません。というのも、復活節は丸々五十日間続き、ペンテコステの日曜日まで終わらないからです。そして、復活節の四十日目には、昇天日があります。イエス様が弟子たちのもとを去るのはこの時で二度目です。一度目は聖金曜日で、弟子たちはいわばどん底を経験しました。しかし、復活節の出来事の一つである昇天は、その経験と全く違うことを、弟子たちに経験させました。有名な神学者であり作詞家でもあるディートリッヒ・ボンヘッファーは、この弟子たちの経験について、こう表現しています。「イースターを知る者にとって、絶望は存在し得ない。」

 

 

キリストの復活と昇天との間に

復活なさった後に主が姿を現されたことは、弟子たちが遺体を盗んだという噂を打ち消すものでした。そして弟子たちが、キリスト復活の真実性を立証する存在となりました。

 

キリストは復活後、再び弟子たちと共に過ごされました。まず、トマスのような懐疑論者にご自身の復活を納得させ、改めて弟子たちに教えを説き、彼らに使命と権限をお与えになりました。大宣教命令に加えて、折に触れて彼らを慰め、再び聖霊がおいでになることを約束されました。「ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる」(使徒1:8)。

 

 

昇天後

弟子たちはイエス様が十字架に磔(はりつけ)となる所まで同行せず、最初は死者からの復活を理解することができませんでした。しかし、彼らはキリスト昇天の目撃者となりました。彼らは、人間としての性質を備えたイエス様が最終的に神様の栄光に包まれる有様を、自ら体験したのです。この体験から、今度は見捨てられたと感じることもなく、部屋に隠れることもしませんでした。ついこの間まであまりの恐怖で身を潜めていたエルサレムに、今度は喜び勇んで戻ったのです。宿舎に戻った彼らは、女性たちと集まり、祈り、ペンテコステの祝祭に備えました。

 

 

昇天を記念して

イエスは神の右の座に着かれた、と聖書の至る所に書かれています。新使徒信条第七条にも書かれています。イエス様の奉仕は御父の右の座で終わらず、私たちの弁護者となって、この最高の場所から私たちのために執り成しをしてくださいます。あの大祭司の祈りのように、ご自分の民のために絶えず執り成してくださるのです。なんと心強いことでしょうか。「彼らのために、私は自らを聖なる者とします。彼らも、真理によって聖なる者とされるためです。また、彼らについてだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々についても、お願いします」(ヨハ17:19-20)。

 

 

昇天は答えを与える

キリストは昇天を通してこんにちも「何が待ち受けているのか「どこで迎えられるのか」という問いに答えてくださいます。さらに「どこで」についての答えだけでなく、「どうすればそこに行けるのか」という問いにも答えてくださいます。

 

人々が真理に生き、永遠の命を得られるように、こんにちから歩むべき道は、イエス様ご自身です。ですから、未知の世界への旅ではなく、イエス様に従う、イエス様との旅なのです。イエス様は羅針盤であり、旅仲間なのです。

 

 

昇天とは寄り添い

昇天とは、別れや遠い先の再会ではありません。イエス様はすでに、神様との永遠の交わりという目標を先取りしておられるため、私たちが神様と何度も出会うことは、今から可能なのです。イエス様の昇天とその後に起きたペンテコステの出来事を通して、神様は人々から遠ざかったのではなく、人々を近くに引き寄せてくださったのです。あるいはマルティン・ルターがキリストについて言ったように、「地上におられた時は、私たちから遠かったが、天におられるようになってからは、私たちの近くにおられる」のです。

 

このキリストは、教会の中で、御言葉とサクラメントを通して、そして私たちが隣人を愛することによって、近くにいてくださいます。信心深い会衆は、常に待ち望み、再びおいでになるキリストを待ち焦がれ、期待に満ちています。

 

 

原著: Simon Heiniger
https://nac.today/en/158033/1161597→

nac.today: New Apostolic Church International

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