2023年5月28日 0:00:00 JST

「聖霊の賜物を信頼しましょう!」― これは、南アフリカのケープタウンで行われた2023年ペンテコステ記念礼拝で、ジャン=ルーク・シュナイダー主使徒が訴えたことです。そうすることによって、信徒は目標に到達するために必要なすべてのものを用意できるのだ、と主使徒は言いました。

 

 

目標とは何でしょうか。それは神様との永遠の交わりです。この目標を達成するために、神様は人間として地上においでになり、犠牲となられました。ペンテコステ以来、この働きを聖霊が「教会において」続けてくださっています。

 

この目標に到達するためには、イエス・キリストと似た者にならなければいけません。イエス・キリストとはどのようなお方でしょうか。愛し、仕えてくださるお方です。ですから私たちも愛し、仕えるのです。神様が私たちの助けを必要としているからではありません。そうではなく、私たちがイエス・キリストのようになりたいと願うからです。

 

 

臆病の霊

実際に、奉仕、福音宣教、罪の確実な赦し、聖餐の確実な施しに苦心している人が大勢いっらっしゃいます。その理由としてよく言われるのは、現代人が神様や信仰に興味を持たなくなったこと、あるいは、弱くて務めがこなせないということです。

 

「神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だからです」(二テモ1:7)。

 

 

力の霊

臆する、恐れる ― これらは「臆病」の別訳です。つまり「あなたの使命を恥ずかしがってはならない。神様はあなたを、イエス・キリストと同様に、奉仕できるようにしてくださったのだから。聖霊の賜物を信頼しなさい」ということです。

 

聖霊は力の霊です。覚えておいていただきたいのは、教会は人間の働きではなく、聖霊の働きである、ということです。聖霊がその使命を果たすのを妨げるものは何もありません。この聖霊が皆さんの中に宿り、皆さんの心の中で生きておられるならば、人間に不可能なこともできます。聖霊においてなされた業は、決して無駄にならないのです。

 

 

愛の霊

神様の愛は、感情や気持ちといったものよりはるかに大きく深く広いです。それは利他性の強さであり、自己犠牲の原動力です。神様の愛は、私たちが御霊の証印というサクラメントを受けた時に、私たちの心に注がれました。「注がれた」という以上は、ほんの数滴ではありません。私たちの全身を満たします。神様は、私たちがいただくことのできる最大限の愛を与えてくださったのです。

 

その愛は私たちを強くしてくれます。最大限の愛をいただいたことが分かると、そのことに感謝するからです。仕えるのは強制されるからではなく、愛と感謝によって仕えさせていただくのです。すると私たちは、人々の反応や評価や自身の業績に左右されて自己を認識することはなくなります。ただひたすら人々の救いに貢献したいと願うだけです。

 

 

思慮の霊

分別、慎み、節制 ― 御霊が持つ三つ目の側面については、様々に表現されます。これにより、私たちは傲慢さを回避できます。私たちがやるわけではないのです。私たちは道具に過ぎません。神様が業をなさるのです。

 

ここでいう自制とは「人にしてもらいたいことを、隣人にしてあげなさい」ということです。分別とは、霊を見分けることです。聖霊から出たものなら、平和、愛、喜びをもたらします。

 

私たちの目標は、一言で言うと、神様との永遠の交わりに入ることです。そのために私たちは、キリストと似た者にならなければいけません。キリストは愛し、仕えてくださるお方です。しかも私たちは聖霊の賜物をいただいていますから、キリストのようになれるのです。キリストに似た者となりたいかどうか、問題はそれだけです。

 

原著: Andreas Rother

https://nac.today/en/158033/1161386

nac.today: New Apostolic Church International

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