2023年7月26日 0:00:00 JST

「安息日を聖とせよ」といいます。もちろん礼拝は安息日の一部です。しかし改めて考えてみると、そもそもなぜ安息日ができたのでしょうか。主使徒は、イタリア訪問の際に、その納得のいく理由をいくつも教えてくださいました。

 

 

2023年6月4日、サレルノで行われたジャン=ルーク・シュナイダー主使徒による礼拝には、南イタリア各地からの参加がありました。基調聖句として、出エジプト記20章8節が引用されました。「安息日を覚えて、これを聖別しなさい。」〔以下、説教の概要〕

 

神様は、人々を悪い影響から守り、彼らを祝福できるように、戒めをお与えになりました。安息日を聖としなさいという戒めを実行する最善の方法は、できるだけ礼拝に参加することです。安息日を聖とすることについては、いくつかの面があります。

 

 

神を賛美・崇拝する

全能なる神様が無からこの世を創造され、イエス・キリストが死と罪に勝利されたことを認識すると、感謝の思いが強くなります。この感謝を、神様への崇拝と賛美というかたちで表現します。天地を無から創造なさった、全能なる神様を崇めます。被造物を見守り、気遣ってくださる神様に感謝します。

 

 

神との交わりに集中する

キリストに従う目的は、神様との完全な交わりに入ることです。これは新しい被造物に関わることですが、安息日にそのことを公に広めて、神様との完全な交わりを意識することができます。

 

神様は七日目に休まれたといっても、体力を回復するためではありませんでした。神様が休まれたというのは、御業が完全であることを言おうとしているのです。最初の人類は神と完全な交わりを持って生きていました。安息日を聖とすることによって、神様や自分の仲間たちとの完全な交わりに入りたいと切に願うのです。

 

 

救っていただいたことを記念する

イスラエルの人々は、安息日に神様が奴隷のくびきから解放してくださったことを思い出すことになっていました。そしてキリスト教徒は、日曜日を安息日として聖別することにしました。聖書によれば、イエス・キリストが死から復活されたのは日曜日だったためです。復活とは、死と罪からの救済です。キリストは私たちを救い出してくださいました。私たちはもはや地上の奴隷ではありません。安息日を聖とすることは、神様と私たち自身との関係が最優先であることを示すしるしです。人が笑おうとからかおうと勝手ですが、私は自由ですし、キリストに従います。

 

 

自由を行使する

安息日を聖なるものとすることは自由のしるしでもあります。これについては、私たち自身の働きや努力だけでなく、神様の恵みと祝福も重要です。神様は六日目になると、イスラエルの人々に十分な量のマナをお与えになりました。人々が七日目に安息日を守れるようにするためです。神様は、七日間必要なものが六日後に与えられることを、彼らに分からせようとなさったのです。私たちは働かなければなりませんが、神様の祝福と恵み無しでは生きられません。

 

 

交わりを持つことが必要

私たちは安息日を聖とします。私たちは一つの民であり、一つのところに属します。よく指摘することですが、孤独な人は御国に入ろうとしません。神様はご自分の人々を、一人ひとりとしてではなく一つの民として、天の故郷にお導きになります。ですから日曜日は交わりの日でもあり、相互の交わりそしてイエス・キリストとの交わりを育む機会を提供してくれる日なのです。

 

 

隣人に奉仕し、善を行う

最後に、イエス・キリストはご自身が安息日の主である、と言われました。イエス様は何度か安息日に人々を癒されました。安息日が隣人に仕え善を行うためにも与えられていることを、弟子たちに理解させようとなさったのです。

 

安息日を聖別するためには、イエス様御自身がなさったように、私たちも奉仕しなければいけません。そのためには、礼拝に貢献します。たとえ今、自分が礼拝を必要としていないと思っても、隣人が礼拝から恩恵を受けられるように、歌い、祈り、あるいはただその場にいることで、礼拝に参加し貢献します。これもまた、安息日を聖とすることの一つなのです。

 

私たち一人ひとり、礼拝に出席しているだけで、隣人に奉仕することになるのです。出席しているだけで、握手するだけで、二言三言声を交わすだけで、隣人にたくさんの善を行うことができるのです。以上が、第三の戒めにおける「聖」の主旨なのです。

原著: Simon Heiniger
https://nac.today/en/158033/1176359→

nac.today: New Apostolic Church International

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