2023年8月9日 19:48:00 JST

今回の聖句は一見すると、分かりにくそうです。低くする人は高くなり、高くする人は低くなる、と言うのです。このルカによる福音書の言葉の意味を、シュナイダー主使徒が解説しております。今回はその記事をお届けします。

 

 

2023年6月11日、ザンビアのソルウェジで行われた礼拝の説教で、主使徒は「誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」というルカによる福音書14章11節の言葉を読み、その直後に「このイエス様の教えは、今の私たちにとって、とても大切です」と述べました。〔以下、説教の概要〕

 

 

神になりたがる

人の常で、自分があたかも神であるかのように振る舞う傾向があります。

 

そういう姿勢を、神様はお認めになりません。旧約の事例を紹介します。アダムとエバを考えてみましょう。二人は、神様の必要性を感じなくなっていました。神様無しでもやって行かれるという思い込みがありました。「何が善で何が悪かを神様から教わる必要はない、もう自分たちで分かるんだから」というわけです。サウルは神様に従わず、いつもすべての物を破壊し尽くさずに、戦利品としてその一部を供物として献げていました。神様に従うことよりも人々を喜ばすほうが、明らかにサウルにとって大切でした。結局サウルは、主に見放されてしまいました。

 

 

上になりたがる

もう一つ、人間には高慢になりたがるという問題があります。「オレのほうが上なんだ」と、自分を人より高く位置づけ、「隣人より自分のほうが優れている」と思い込みます。しかし人はすべて罪人であり、皆が神様の恵みを必要としているのです。自分が高ぶることで、自分の欲望や自分が必要としているものを、他人のそれらより優先させてしまいます。こういう姿勢でいることで、隣人にもたらす結果などどうでも良くなってしまいます。自分の欲しいものがあれば、それで良いのです。また、自分と異なっていることを理由に、相手が価値の無い存在だと考えることで、自分を相手より上に位置づけることは止めるべきです。

 

 

イエスを手本に

イエス様がそうであったように、私たちも自分を低くしましょう。謙虚になりましょう。イエス様を手本としましょう。イエス以下の点で、私たちの手本です。

 

  • 信頼。イエス様がそうであったように、謙虚になりましょう。強制されたり、そうせざるを得なかったりしたからではありません。イエス様は自由に振る舞うことができましたが、「御父が全能であり、すべてをご存じで、自分を愛してくださること」を理解しておられました。人であったが故に、神様のなさっていることが分からなくても、信じておられました。
  • 愛。イエス様は、仕えたいというお気持ちから、ご自身を低くされました。謙虚でした。仕えたいとお気持ちは、イエス様が神様と隣人を愛しておられたためです。
  • 自分も愛すること。謙虚と卑屈は違います。「オレは邪悪だ。オレ以外のすべての人のほうがずっと優れている。」それは違います。イエス様は謙虚な方ではありましたが、ご自身の豊かさも自覚なさっていました。私たちは神様の被造物なのです。神様から選ばれたのです。とはいえ、隣人も同じように愛され選ばれていることを自覚すべきです。
  • 一致。キリストと一つなり、互いに一つになることは、自分自身の考えや、古びた慣習や、意見より大切です。そうした考えや慣習などがいくら良くても、キリストとの一致や相互の一致に妨げとなるなら、放棄すべきです。
  • 悔い改め。神様が怖いから悔い改めるのではありません。自分の罪がイエス・キリストから引き離していることを知っていますから、謙虚になり、悔い改めるのです。

 

 

終わりよければすべて良し

謙虚な人には素晴らしい未来が待っています。神様は謙虚な人を、自身の努力で到達できない、不釣り合いと思えるほど高い地位にまで引き上げてくださるのです。つまり、神様はへりくだる者を高め、御国へと導いてくださるのです。あらゆる痛みや苦しみ、死や不道理さえも凌駕する地位へと引き上げてくださるのです。神様は私たちを高くしてくださるものの、隣人の上に置くようなことはなさいません。私たちは初穂として御国に入らせていただき、隣人への奉仕を継続します。イエス・キリストの祭司として、私たちは地上に戻って人々に仕えるのです。

 

そして、最終的に、謙虚になって、イエス・キリストに従ったすべての人々が、新天新地に引き上げられるのです。

原著: Katrin Löwen

https://nac.today/en/158033/1184543→

nac.today: New Apostolic Church International

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