2023年10月17日 19:48:00 JST
聖書を扱う場合は、その書かれた背景が重要になります。聖書を読んで理解しようとする時、このことを心がければ、驚くような結果にたどり着けることもあるのです――賢いおとめと愚かなおとめのたとえのように。
「十分な油を持っていなさい。」新使徒教会の礼拝で、よく教わることです。ここでいう油とは、どういう意味でしょうか。このたとえの背景を検証することで、この問いの答えが見つかります。
未来を垣間見る
豪華絢爛な神殿。弟子たちはオリーブ山から見たその景色にわくわくしました。しかしそんな弟子たちに、イエス様は「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と言われただけでした。この言葉に弟子は釘付けになります。彼らの未来はどうなるのでしょうか。
これは、マタイによる福音書24章と25章に書かれているオリーブ山の説教の冒頭部分です。まず最初に、イエス様は、ご自身がもう一度この地上に来る〔再臨〕までに起こることを説明しておられます。すなわち、しるしが示され、大きな苦難〔大艱難〕があり、そして最後に人の子が来る、と説いておられます。
次に、忠実な僕と悪い僕、賢いおとめと愚かなおとめ、託されたタラントン、最後の審判という、私たちも良く知っているたとえを用いて、用心するよう忠告しておられます。
四つのたとえが教えていること
この四つのたとえは、ただ緩やかにつながっているのではなく、相互に関連し、連動し、互いを土台として成り立っているのです。
- この四つのたとえはそれぞれ、キリストの再臨にどう備えるべきかを教えています。
- この四つのたとえはどれも同じ構成で、間違った行動と正しい行動を一つずつ挙げて、二つを対比させています。
- たとえ話の舞台は、婚宴の閉ざされた扉から「主人と一緒に喜んでくれ」という言葉、そして、この世の王であり裁き主であるお方の玉座の間に向かって淡々と進んで行きます。
- 四つのたとえ話は、二つの共通の糸で交互に結ばれています。一つは「誰もその日、その時を知らない」(マタイ24:36、42-44、25:13)という警告であり、もう一つは、マタイ24章51節と25章30節に書いてあるように「泣き、歯ぎしり」するだとうという警告です。
たとえ話を読み進めると、その趣旨が次第にはっきりします。二人の僕のたとえ話が教えていることは簡潔で「時間を無駄にしてはならない」というものですが、十人のおとめのたとえは「自分のほうから積極的に準備しなさい」と教えます。さらにタラントンのたとえになると「神からいただいたものを用いて働く」ための方法が示されます。
最後の審判のたとえになると、それまでのたとえよりはるかに深まったものとなります。それまでの三つと描写が違います。たとえではなく、「飢えていたときに食べさせ、喉(のど)が渇(かわ)いていたときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢(ろう)にいたときに訪ねてくれた」と、しなければならないことが直接指示されています。つまり「この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである」ということなのです。
たとえの背景を理解する
イエス様と同じ時代のユダヤ人たちは、こうした遵守事項のようなものに慣れ親しんでいました。これは単に一般的な善行の問題ではなく、もっと具体的な愛の行いという問題です。隣人に与えるべきは金銭ではなく、同胞に手を差し伸べ、身を捧げるという形のキリスト教的愛であるという点で、施しとは異なるものだったのです。
ここで、一連のたとえ話を新しい視点で考えてみましょう。結局のところ、隣人に、ひいてはイエス様に手を差し伸べ、自分自身を献げるということになれば、重要なのは当然一人ひとりの才能〔タラントン〕――ルカによる福音書では「ムナ」とも――です。つまり、私たちに託されたものを地の中に隠すとは、神様が私たちにくださったものを受け継ぎ、分かち与え、神様にお返しするのを拒否するということなのです。
愛の業に油を足す
さて、おとめが持っていた灯(ともしび)には、どのような意味があるのでしょうか。愛の業と結びつけることによって、次のような答えを導き出せます。
- マタイによる福音書5章14、16節「あなたがたは世の光である。…そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためである。」
- ヨハネによる福音書15章8節「あなたがたが豊かに実を結び、私の弟子となるなら、それによって、私の父は栄光をお受けになる。」
- エフェソの信徒への手紙5章9節「光の結ぶ実は、あらゆる善と義と真理との内にあるからです。」
また、このたとえ話は次のように解釈することもできます。つまりイエス・キリストを告白する人は、主に会う準備をします。聖餐と神様の御言葉を理解できる人は、灯を用意して、手元に持っています。しかし、愛――コリントの信徒への手紙一では愛を最高の賜物と称えています――がなければ、これはその灯も器にすぎません。
そのような意味で、油を持っていなさいという呼びかけは、私たちにとって非常にわかりやすい忠告です。「十分な愛を心に持っていなさい」「心を愛で満たしなさい」ということです。
原著: Andreas Rother
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