2024年3月23日 0:00:00 JST

イエス様は、ご自分がなさろうとしていることを正確に理解しておられた上で、エルサレムに上って行かれました。しかも、ご自身の時が来る直前まで、しるしを示しておられたのです。棕櫚の聖日について考えましょう。

 

 

南米の山岳地帯にこんな逸話があります。棕櫚の日曜日の出来事が聖書から読み上げられると、信徒たちはいつもくすくす笑うのです。牧師は、新約聖書を現地の言葉に翻訳した人々に問い合わせました。

 

すると、この言語にはろばという言葉がないことが判明したのです。翻訳者はろばを「耳の長い毛皮の動物」と表現した。現地の人々にとって、そんな動物は一種類しかありませんでした。そこで、イエス様がウサギに乗ってエルサレムに飛び込んだ、と彼らは思ったわけです。

 

疑わしい評判

歓声に包まれながらなつめやし〔棕櫚(しゅろ)〕の枝の上をトコトコと歩くろばは ― 少なくても今は ― 不似合いとしか言えません。気の毒なことに、ろばの評判はよろしくありません。愚か、頑固、怠け者の代名詞なのです。古代ギリシャでさえ、ロバの評判は芳しくありませんでした。抑えの効かない肉欲の象徴と見なされていたのです。

 

そのような動物が、なぜイエス様のエルサレム入城において重要な役割を果たしたのでしょうか。なぜイエス様はわざわざろばを弟子たちに用意させたのでしょうか。ユダヤ人たちはイエス様を見た時、ロバをお選びになったことで、イエス様がお示しになったしるしをすぐに理解しました。

 

しるしがもたらした反響

イエス様と同時代に生きた人たちが「あなたの王があなたのところに来る」というゼカリヤ書9章9節の預言を知っていたことは確かです。そして、その王が乗った乗り物が非常に重要で、ろばの性質上、その表現は聴衆に強い印象を残します。ヘブライ語の底本によれば、ろば(chamor)、若くて強いろばの雄(ajir)、雌ろばの純血種の子(baen atonot)となっています。

 

10節はなぜこれが重要かを教えてくれます。ろばは馬ではありません。通常は戦車や弓と一緒に現れるような戦闘馬ではありません。ろばに乗る人が戦闘の場に現れることはなく「諸国民に平和を告げる」とあります。暴君ではなく、平和の王です。この王の乗る動物によって、謙虚で穏やか、正しくて助けをもたらす王であることが分かるのです。

 

愚かではない

時を遡り、イエス様のご生涯で最初にろばが登場する場所を見てみましょう。イエス様が初めて光をごらんになった、馬小屋の飼葉桶に、その動物がいたというのは、実は福音書に書かれていることではなく、キリスト教において以前からそのようにされています。これは「牛は飼い主を知っており/ろばは主人の飼い葉桶を知っている」という、イザヤ書1章3節の記述によるものです。

 

時代は進んで、紀元2世紀に入ります。ローマ市内のある家の壁に、誰かが壁土に刻んだ「アレクサメノスが彼の神を崇拝している」という落書きがあります。これがイエス様を表現した最初の絵です。十字架につけられたイエス様を、ろばの頭を持つ人物として描かれています。十字架に磔にされる様子を風刺したものと伝統的に解釈されています。一部の神学者は、それがキリスト教徒の自己描写である可能性を主張しています。イエス様が罪のない子羊として世界の罪を負われるように、古代において荷物を運搬するのに用いられていた動物が、世界の重荷を背負うのです。

 

勇気をもって一歩一歩

こうしてみると、冒頭で紹介した逸話に登場する、長い耳を持つ毛むくじゃらの動物は、全く別のものですね。そして、イエス様がなぜこのようにしてこの世の歴史を歩んでおられるのか、理解が深まります。こんにちでも、イエス様は、鼻息の荒い軍馬ではなく、貧相で小さなろばに乗って登場されます。このろばこそ、信徒である、自分自身なのです。

 

自分自身をこのように見るには勇気が必要です。謙虚に仕え、柔和で平和でいられ、忍耐する勇気と耐える力が必要です。私たちは、私たちを義とする十字架の前で、自分の頑固さと愚かさを告白します。そして、自分の魂がどの飼い葉桶で、永遠に生きるための栄養を得られるかを知っています。

 

棕櫚の聖日の時のように、人々からどれほど拍手喝采を受けようと、あるいは聖金曜日の時のように、人々からどれほど軽蔑罵声を受けようと、道に迷うことがなかったという意味で、このろばも、確かに頑固なのかも知れません。

原著: Andreas Rother

https://nac.today/en/158033/1255240

nac.today: New Apostolic Church International

 

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