2. 4月 2024

最善のWi-Fiは、祈り

インターネットに接続する技術の一つに「Wi-Fi(ワイファイ)」というものがあります。コンゴ民主共和国はこの接続技術がそれほど優れている所ではありません。現地を担当しているミヒャエル・デップナー教区使徒が、この接続技術について説明しています。

 

あることを繰り返しやっていると、慢性化したり惰性的になったりすることがよくあります。しかし、祈りの生活がそのような罠に陥ることがあっていけません。私たちの祈りを天の父との真の対話と考えると、祈りのあり方も変わります。神様は私たちを創造し、愛し、ご存じですから、特に親密で誠実な祈りになります。


祈りは役に立ちます。役に立つものです。効果につながります…。「祈り」と「効果」の間で少し休憩をとると、理解しやすくなるかもしれません。私たちは祈りと効果の両方に力を入れます。祈りの後に効果が続かなければ、すべてがむなしくなります。人のために祈り、その後に効果としてその人を助ける。または、何かのために祈り、その後そのことのために行動し効果を発揮させる。目標を達成するために行動する。このようにして祈りの効果が発揮されるのです。祈りが役に立つのです。

 

私たちの標語が言おうとしているのは祈りの質ではなく、御父の力と御旨を信じ尊ぶことです。主はマタイによる福音書21章22節を通して、主は私たちを次のように励ましておられます。「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」


信頼することが不可欠

信頼は祈りにおいて非常に重要な側面です。重要なのは、キリストを信じ、キリストの教えを信じることです。私たちの信頼は厚くなったり薄くなったりすることがあります…。信頼しなくなることもあります。薄くなったり信頼しなくなったりすると、私たちの声は次第に弱くなります。何かを長い間祈っても、答えがなかったり、「だめ」という答えが返って来たりするかもしれません。このことを私たちは、キリストのように、受け止められるようにしなければいけません。そして祈り続けなければいけません。持続させることが必要です。


イエス様は、少しの信仰でも山は十分動く、と言われました(マタ17:20)。このことを私たちは信じているでしょうか。私たちは、現時点で不可能だと思われること、または不可能だと私たちが考えることについて、それを求めて祈るのを簡単にやめてしまうことがあります。主使徒は「イエス様の名によって何か-自分自身のこと、他人のこと、御業のこと、何であれ-を求めると、私たち自身の生活、私たちの隣人、御業に対するイエス様の御旨をさらに信頼するようになる」と言っております。


確かに、私たちはすべての祈りにおいて、「ただ、ひと言おっしゃってください」(マタ8:8)と言った百人隊長のように、揺るぎなく信頼できるとは限りません。この2024年を通して、聖霊による御言葉のもとで、信頼が増すことを願います。また、聖餐に与り互いに支え合うことによって力を得ることもできます。


神と共に過ごさせていただいた過去を思い起こす

この百人隊長は本当に謙虚な人でした。「主よ、私はあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」という彼の発言に、イエス様はきっと感銘を受けたのでしょう。なぜならイエス様は百人隊長の求めに応じておられるからです。この人の信仰が願望の実現に貢献したのです。私たちも過去の経験によって信頼が確信に変わることがあります。主はすでにどれほどの祈りを聞き届けてくださったでしょうか。それが分かると、より熱意を込めて祈れるようになります。


青年の皆さんに一言。誰かが皆さんの名前をソーシャルメディアや出版物などどこでも掲載することがあります。ただソーシャルメディアや出版物も結構ですが、皆さんの名前を、祈りに含めてもらうほうがはるかに有益ですし大切です。そうしてくれるようその誰かさんに頼んでください。コンゴではネットワークの問題があるかもしれませんが、ともかく最良のWi-Fi接続は祈りに限ります。


人生ではうまくいかないこともあります。しかし、信仰生活では、いつも喜び、感謝します。より積極的に祈り、その祈りに基づいてもっと働くようにしましょう。祈りは助けるだけでなく、役に立つのです!

原著: Michael Deppner

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秘訣は準備にある

イエス様がもう一度おいでになって御自身の民を御許に引き上げてくださる時に備えることが、全キリスト教徒の目標です。そのためには染みも傷も全くないことが必要である、と使徒ペトロは書簡の中で書いています。これが具体的に何を意味するのか、主使徒が神の礼拝の中で説明しています。

 

「神様は私たちのために、そして全人類のために救い主を遣わすという約束を実現され、このことを記念するために、本日私たちは集まりました。つまり何があったかを思い出すというのもさることながら、自分たち一人ひとりにとってイエス様の降誕が何を意味するのかについて考えるのです。」ジャン=ルーク・シュナイダー主使徒は2023年12月10日、南アフリカ共和国ヨハネスブルク近郊のディンウディー教会で司式した礼拝で、説教の冒頭でこのように述べました。


聖句はペトロの手紙二3章14節が引用されました。「それゆえ、愛する人たち、これらのことを待ち望みながら、染みも傷もなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。」〔以下、説教の概要〕これは主の再臨について述べています。率直に申し上げて、永遠の命を信じないで、神様を信じても意味がありません。イエス・キリストの再臨を信じないで、イエス・キリストを信じても意味がありません。多くのキリスト教徒がイエス様に従うのは、この世の理由でしかありません。この世の理由でしかキリストに従わないのであれば、遅かれ早かれがっかりさせられることになるでしょう。


神の御前で染み一つない

けさ与えられた聖句は、キリストの再臨への備え方について、その手がかりを与えてくれるものです。「染みがあってはならない」と書いてあります。ただこの言葉を「完全無欠で二度と罪を犯してはならない」という意味に取るなら、それは全くの誤解です。人間にそのようなことはできません。「染みがない」とは、私たちの罪が赦されて、恵みによって義とされたことを意味するのです。


恵みによってすべての罪が赦され、義とされるために、あらゆる努力をしましょう。神様は以下のような人たちに恵みを与えてくださいます。

 

  • 罪人であることを自覚し、恵みに頼る人。自分が罪人であることを自覚できるのは、父、御子、御霊なる神様の完全と栄光を知っているからです。
  • 恵みを願う人。私たちが恵みを願うのは、怖いからではありません…。キリストを愛し、キリストと一緒にいたいと強く思うからです。
  • 謙虚な人。謙虚とは、神様を自分の主人として受け入れることをいいます。
  • 罪や悪と戦う人。たとえ完全になれないとしても、自分の弱さに甘んじているわけにはいきません。
  • 赦す努力をする人。恵みを得るための最後五つ目は、自分のほうから敵と和解しようとすることです。

 

信頼することにおいて傷がない

イエス様といえども、苦しみを免除されたわけではありません。神様はイエス・キリストを愛されたように、私たちも愛されます。守り、糧をお与えになりますが、一切の苦しみが免除されるわけではありません。神様は、私たち貧しい者が必ず御国に入れるようにしてくださるのです。ですから神様を信頼しましょう。


愛することにおいて傷がない

こんにちにおいては、生ぬるくなる危険性があります。生ぬるい、つまりいい加減な信徒は、楽で気分が乗っているだけ神様に仕えます。困難で気分が乗らなくなった途端に、仕えることができなくなります。中途半端な人は、興味があって利益になっている間だけ神様に仕えます。しかし気分が乗らず興味が失せてくると「悪いけれどできません」と言ってやめてしまいます。是非、心から主に仕え、心から主を愛するようにしましょう。


隣人を愛することにおいても、生ぬるくならないようにしてください。パウロも「主があなたがたを、互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ち溢れさせてくださいますように」と言っています。私たちは聖霊の賜物をいただいた時に、神様の愛を心に注いでいただきました。その時からその愛は成長しているでしょうか。以前よりも寛容になれているでしょうか。人は十人十色です。しかし神様はそのすべての人を、私たちと同様に愛しておられます。このことを受け止めているでしょうか。神様はすべての人を憐れんでくださいます。このことが受け止められているでしょうか。お互いの愛が増し加わっているならば、私たちは神様の御前で傷のない人と言えます。


主使徒からの秘訣

以上をまとめます。私たちの目標はキリストの再臨です。私たちは準備をしたいと願っており、あらゆる努力をしています。特に、恵みによってすべての罪が赦され清められるために努力を尽くしましょう。私たちは神様の栄光と自らの不完全さを認め、恵みが必要であることを自覚しましょう。恵みを願うのは、怖いからではなく、キリストに引き上げていただきたいという強い気持ちを表現するためです。私たちは神様の御前で謙虚になり、神様の教えと導きを受け入れます。今も進んで改善・変化しようとして、隣人もさることながら敵とも和解したいと思います。傷をなくしたいと思います。神様の愛と御言葉を信じ、神様を信頼します。
原著: Katrin Löwen

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信仰への情熱

復活祭…。そして三月の礼拝は、その指標となるものでした。憐れみと連帯、交わりと神様による統治、模範と先駆者について説教でした。ここで受難節をかんたんにおさらいしましょう。

 

神の慈しみは天に届く、という詩編57編11節の有名な信仰告白を、三月第一日曜日の礼拝で扱います。神様の人類する配慮は、優しさ、世話、憐れみが特徴です。そして、神様はいつも約束を守ってくださいます。


神様の優しさは、この地上においてまた死者の領域において、御言葉を通してまたサクラメントを通して働きます。詳しいことは、2024年最初の故人のための礼拝で扱いました。


双方の連帯

第二日曜日は預言者イザヤが語った「神の僕の苦しみ」に関する説教です。キリスト教では、神の僕の苦しみというとイエス様を表すのが伝統です。イエス様は肉体的な苦痛を受けただけでなく、軽蔑され、無視され、排除されたのです。


イエス様は、人間が経験することを、すべて経験されました。イエス様に従うとは、イエス様と共に苦しむことです。これは、自分自身の苦しみや困難にいつも目を向けたり、それにこだわったりすることではなく、…。この続きは、3月10日の説教で教わりました。


主との交わり

復活祭に向けた次の段階として「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りを献げてそれを裂」かれました。コリントの信徒への手紙一だけでなく、マタイ、マルコ、ルカの各福音書にも聖餐のことが書かれています。


イエス様は、逮捕される前に聖餐を行うことで、再臨されるまで、御自身との真の交わり、そして相互の真の交わりを持つための土台を築かれたのです。聖餐に繰り返し参加することで、私たちは、御父、御子、聖霊との永遠の交わりからなる未来を意識するようになります。


聖餐の様々な側面について、三月第三日曜日に考察します。なお、日本ではローデウィック使徒によって、使徒言行録8章30~31節を元に、説教が行われました。


我々の心を統治する

イエスは王である。これが棕櫚の日曜日の主旨です。私たちは、イエス様の王国がこの世にないことを知っています。イエス様の願いは、神様の御国、神様による平和と栄光へ人類を導くことです。


そのために、イエス様は、信徒たちがますます神様に似た者となれるように、彼らの心を統治しようとされます。するとこのような人々は、イエス様が再びおいでになった時に、神様の御国に入れるようになるのです」。


模範となる人たちのための模範

聖金曜日の礼拝は、観察者に焦点を当てます。三つの福音書には、十字架の近くに立ち、イエス様が死なれた時に何が起こったかを目撃したローマの百人隊長のことが書かれています。最後に、異邦人であるこの百人隊長は「まことに、この人は神の子だった」と悟るのです(マコ15:39)。


百人隊長が感銘を受けたのは、イエス様の自制心、祈り、誠実さ、確信、そして隣人への愛でした。イエス様を模範とする人によって、その同胞の人も信じられるようになります。


その日は明け

最後に、復活の日の朝が明けます。「しかし今や、キリストは死者の中から復活し、眠りに就いた人たちの初穂となられました。」使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一の中で、初期キリストの教会の信仰についてこう述べています。


パウロの時代の人々もそうでしたが、現代の人々にとっても、これは始まりに過ぎません。イエス・キリストの復活は、キリストに従う人々の復活を保証するものだからです。そして、これこそが、復活への希望に基づいた生き方なのです。

原著: Andreas Rother

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信じて継続して祈る

祈りが役に立つためには、特定の要件を満たす必要があります。ミヒャエル・エーリヒ教区使徒(南ドイツ担当)は、祈りが神様の御前で聞き届けられるための方法を示すために、聖書の言葉をいくつか引用しています。

 

マタイによる福音書7章7節には「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる」と書かれています。ルター訳ドイツ語聖書では、この節の上に「祈りへの確信」という見出しがあります。私たちは、天にいます御父に祈りを献げる時、神様への確信をもって献げるべきです。神様は、信心、信頼を伴った祈りを決して無視なさいません。


ルカによる福音書18章1節以下には、不正な裁判官のたとえ話が書かれています。彼のところにある未亡人がやって来て、自分を守ってくれるようしつこくせがむので、最終的にこの裁判官は彼女に屈服します。主はここで、継続して祈ることの大切さを明らかにしておられます。もちろん、自分の望むことを実行するよう要求することはできませんが、お願いはいつでもできます。実際、数週間、数か月、または数年間かけてお願いする場合があります。継続が重要なのです。


皆さんとすべての兄弟姉妹にとって、神様の助けと祝福に満ちた年なるようお祈り致します。また、多くの祈りに答えていただけることも願っております。

原著:  Michael Ehrich

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昇天 ― とても遠いが、とても近い

終わりが始まりでした。イエス・キリストは天に昇られたことによって、人々から遠ざかったのではなく、実は寄り添ってくださったのです。昇天日は復活節の中の一日です。

 

復活祭はまだ終わっていません。というのも、復活節は丸々五十日間続き、ペンテコステの日曜日まで終わらないからです。そして、復活節の四十日目には、昇天日があります。イエス様が弟子たちのもとを去るのはこの時で二度目です。一度目は聖金曜日で、弟子たちはいわばどん底を経験しました。しかし、復活節の出来事の一つである昇天は、その経験と全く違うことを、弟子たちに経験させました。有名な神学者であり作詞家でもあるディートリッヒ・ボンヘッファーは、この弟子たちの経験について、こう表現しています。「復活祭を知る者にとって、絶望は存在し得ない。」


キリストの復活と昇天との間に

復活なさった後に主が姿を現されたことは、弟子たちが遺体を盗んだという噂を打ち消すものでした。そして弟子たちが、キリスト復活の真実性を立証する存在となりました。

 

キリストは復活後、再び弟子たちと共に過ごされました。まず、トマスのような懐疑論者にご自身の復活を納得させ、改めて弟子たちに教えを説き、彼らに使命と権限をお与えになりました。大宣教命令に加えて、折に触れて彼らを慰め、再び聖霊がおいでになることを約束されました。「ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる」(使徒1:8)。

 

昇天
弟子たちはイエス様が十字架に磔となる所まで同行せず、最初は死者からの復活を理解することができませんでした。しかし、彼らはキリスト昇天の目撃者となりました。彼らは、人間としての性質を備えたイエス様が最終的に神様の栄光に包まれる有様を、自ら体験したのです。この体験から、今度は見捨てられたと感じることもなく、部屋に隠れることもしませんでした。ついこの間まであまりの恐怖で身を潜めていたエルサレムに、今度は喜び勇んで戻ったのです。宿舎に戻った彼らは、女性たちと集まり、祈り、ペンテコステの祝祭に備えました。


こんにちの昇天

イエスは神の右の座に着かれた、と聖書の至る所に書かれています。新使徒信条第七条にも書かれています。イエス様の奉仕は御父の右の座で終わらず、私たちの弁護者となって、この最高の場所から私たちのために執り成しをしてくださいます。あの大祭司の祈りのように、ご自分の民のために絶えず執り成してくださるのです。なんと心強いことでしょうか。「彼らのために、私は自らを聖なる者とします。彼らも、真理によって聖なる者とされるためです。また、彼らについてだけでなく、彼らの言葉によって私を信じる人々についても、お願いします」(ヨハ17:19-20)。


昇天は答えを与える

キリストは昇天を通してこんにちも「何が待ち受けているのか「どこで迎えられるのか」という問いに答えてくださいます。さらに「どこで」についての答えだけでなく、「どうすればそこに行けるのか」という問いにも答えてくださいます。


人々が真理に生き、永遠の命を得られるように、こんにちから歩むべき道は、イエス様ご自身です。ですから、未知の世界への旅ではなく、イエス様に従う、イエス様との旅なのです。イエス様は羅針盤であり、旅仲間なのです。


昇天とは寄り添い

昇天とは、別れや遠い先の再会ではありません。イエス様はすでに、神様との永遠の交わりという目標を先取りしておられるため、私たちが神様と何度も出会うことは、今から可能なのです。イエス様の昇天とその後に起きたペンテコステの出来事を通して、神様は人々から遠ざかったのではなく、人々を近くに引き寄せてくださったのです。あるいはマルティン・ルターがキリストについて言ったように、「地上におられた時は、私たちから遠かったが、天におられるようになってからは、私たちの近くにおられる」のです。


このキリストは、教会の中で、御言葉とサクラメントを通して、そして私たちが隣人を愛することによって、近くにいてくださいます。信心深い会衆は、常に待ち望み、再びおいでになるキリストを待ち焦がれ、期待に満ちています。

原著: Simon Heiniger

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この世で死んでから永遠に生きる

王の王なるイエス様は、罪人が永遠の死を受けることなく、ご自身が復活することで、彼らが神様との永遠の交わりを希望できるように、ご自身を卑しい者とされ、最悪の犯罪者のような死を遂げられます。

 

棕櫚の聖日、聖金曜日、復活祭…。それぞれを改めて振り返り、その意義を確認し、昇天日、聖霊降臨日につなげたいと思います。


キリストは実際どのようにして統治されるか

棕櫚の聖日は、イエス様がエルサレムに入城なさったことと、人々がイエス様に抱いた期待を記念する日です。「主の名によって来られる王に/祝福があるように。」イエス様は、ご自分が王であることに注目させながらも、その王権が地上での統治とは無関係であることを明確にされました。このことを人々が理解できたのは、イエス様の友人や親しい仲間でさえも、後から振り返ってのことでした。この霊的な次元による神様の御国というものについて、改めて考えてみましょう。イエス・キリストは王であり、こんにちでも教会を統治しておられます。イエス様の統治は、すべての人に対する愛と恵みによる統治なのです。


一人の人間の死

ルカによる福音書には、イエス様が死刑の宣告を受ける場面について書かれています。ピラトはイエス様を釈放しようとしましたが、民衆は死刑にするよう主張しました。そのため、キリストは、最悪の犯罪者だけに行われた、特に屈辱的な死に方をなさったのです。罪のないお方は、最悪の罪人と同じように死ぬことを覚悟されました。受難と死の瞬間を、真の人間として生き抜かれたのです。


この完全なる犠牲の業は、すべての罪人が救われ、神様との永遠の交わりを持てるようになったことを意味します。私たちは、この恩恵を享受するのに、私たちがイエス様のように死ぬ必要はないのです。唯一の条件は、私たちがイエス・キリストに従うこと、つまり、代わりに死んでくださったイエス様にあって生きることです。


神にあって生きる

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」ルカによる福音書に書かれているこの問いは、キリスト復活という出来事を的確に要約しています。キリストは、地上での務めをなさっておられた時、弟子たちに、死んでも共にいることを明らかにしておられました。


そして、主は復活された後、多くの人々に姿を現されました。墓にいた女性たちのほか、エマオへの道で弟子たちと一緒に歩かれ、ペトロや使徒たち、さらには五百人以上の兄弟姉妹が集まる中でもご自身の姿を現されました。


その当時と同じように、こんにちも、信じる人たちに会われ、「私が生きているので、あなたがたも生きることになる」ということを確信させてくださるのです(ヨハ14:19)。


信頼は疑念に打ち勝つ

イエス様とごく近しい仲間たちも、様々な証言に基づくイエス様の復活を信じることに、困難さを感じていました。悲しみと絶望に打ちひしがれていた彼らは、自分たちの考える疑念を変えることができませんでした。そこで、復活された主は、彼らの前に姿を現され、「その不信仰とかたくなな心をおとがめに」なりました(マコ16:14)。このように弟子たちが疑念を抱いていても、イエス様は彼らに「世に出て行って福音を宣べ伝える」という重要な使命を託されました。キリストは、当時も今も、疑う者を見放されないのです。


神様の行動は、合理的に考えることが全く不可能です。神様を厚く信じることによって、はじめて抱きがちな疑念を克服することができます。しかし、神様の御計画を人々が疑っても、神様の人類に対する愛が揺らぐことはありません。


未来の自分への問いかけ

「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私は、その罪人の頭です」(一テモ1:15)。すべての人に恵みを与えようという神様の御旨と、イエス様が主であることを公に広めることが、私たちには必要です。


キリスト教徒を迫害する者が、イエス様と出会い、その後は主のために戦う者に変わりました。パウロは自分を罪人と見なし、キリストが救い主であることを公に広めました。


神様は、パウロのように、ご自分に仕えるよう罪人に呼びかけておらます。そして、パウロのように、呼びかけられた者たちは、悔い改めなければなりません。そのためには、素直になって自らを省み、「自分はどうありたいのか」と自分に問うことが必要です。


イエスの御名において境界を越える

キリストは、弟子たちが自分たちの知っているすべての境界や制限を超えて、世界中で洗礼を授け、教えなければならないという意味で、「大宣教命令」を出されました。


こんにち、使徒たちが教える内容は、常にイエス様が福音書で教えられたことを背景にしているものでなければいけません。イエス様は、「私を離れては、あなたがたは何もできない」と、ぶどうの木のたとえによってこのことを明らかにしておられます。これは、使徒職から送り出されるすべての教役者たちも含まれます。


しかし、この使命を積極的に支える人は、しばしば自分の限界に直面します。そこで、聖句にあるイエス様の約束が当てはまるのです。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ28:20)。

原著:Andreas Rother

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信頼と共に高まる効果

祈りにはとてつもない力があるのに、その力をなぜすべての人が等しく感じられないのか。スイスのユルク・ツビンデン教区使徒が問題提起しています。これに対する答えは、期待と関連しています。

 

イエス様の弟子たちは祈りについて知っていましたが、イエス様の祈りを聞いて非常に感動し「私たちにも祈りを教えてください」と言いました(ルカ11:1)。私たちも、祈り方について自分自身の考えをもって育ってきたのではないでしょうか。しかし、神様の家で聖霊に導いていただくと、自分たちの内面で「イエス様のように祈りたい」という願望が育まれます。なぜならイエス様は私たちにとって最高のお手本だからです。


祈りとは神様との対話です。この対話を、私たちにとって心から必要なものとしなければいけません。イエス様にとってもそうでした。イエス様は御父との対話を好まれ、しばしばなさっていました。御父を何よりも愛しておられたからです。私たちはどうでしょうか。キリストの愛が私たちを祈りに駆り立てます。キリストの愛が私たちの心に燃えると、私たちは神様と親しくさせていただこうとします。天のお父様からいつでも愛され理解されているということが分かるだけで、励みとなり自信が持てます。


残念ながら、こんにちにおいては、祈りが「福祉事務所」へ行くのと同じになってしまっている人がいます。困難な状況になって支援を求めたい時にしか連絡しないのです。また、家が燃えている時に消防署に電話するのと同じになっている人もいます。こうした例はいくらでもあります。


お笑いですが、考えさせられた出来事があります。


ある地域で催しを準備していました。この催しはだいたいが屋外で行われる予定のものでした。天気はかなり良かったので、兄弟姉妹は皆、この特別な催しを楽しみにしていました。ところが予報に反して、突然暗い雲が立ち込めてきました。主催者たちはとても心配になって、指導統轄担当の教役者と協議し、そして天気が保ってくれるのを一緒に祈ってくれるようその教役者に頼みました。皆が集まり、熱心に神様と向き合いました。兄弟姉妹たちは強い信仰の持ち主でした。つまり主の助けを確信していました。ただ、指導統轄担当の教役者には多分それほどの確信がなかったようです。後になってある兄弟のところに行き、お金を渡して「念のため、傘を買っておいて」と言ったとのことです…。


私たちの祈りは、幼子のような信仰と神様への信頼が支えなければいけません。そうするならば天のお父様が喜んでくださる一方で、祈る人は平安と確信を得ます。神様が近くで守ってくださるのを感じます。本当に、祈りは役に立つのです!

原著: Jürg Zbinden

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