2024年4月18日 0:00:00 JST

礼拝は神様と人とが出会う場です。その中心において、聖餐が行われます。聖餐は、こんにちの模範となり、明日を先取りします。ここに、聖餐という交わりの存在理由があるのです。

 

 

イエス様が主の晩餐を導入された時の御言葉が、2024年1月14日にオランダのホールン行われた礼拝で扱われました。「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを献げてそれを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられる私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。」食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である。』」(ルカ22:19-20)。〔以下、主使徒による説教の概要〕

 

聖餐が行われるたびに、主イエスがいらっしゃる、ということを私たちは信じます。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(マタ18:20)と主は言われたからです。使徒及び使徒から委託されている教役者が、イエス・キリストの権威において活動し聖餐を執り行うところでは、御子なる神様が体と血の中にいらっしゃるのです。

 

これが私たちにとってどんな意味があるのでしょうか。

  • イエス・キリストが私たちを招いてくださっている、ということです。私たちがイエス様を選んだのではなく、イエス様が私たちを選んでくださったのです。誰を招くかをご自分がお決めになって、その人をお招きになります。私たちの隣に座っているのが誰であれ、私たちの兄弟であれ、姉妹であれ、私たちと同じようにこの交わりを持つ権利があります。
  • イエス・キリストの臨在は事実である、ということです。体はイエス様の命を象徴しています。イエス様がおられた時になさったこと、教えられたことを、考えましょう。十字架上の犠牲によって達成なさったことを思い出しましょう。
  • イエス・キリストはパンをくださる、ということです。パンとは永遠の命のことです。永遠の命は、私たちの力で得られるものではありませんし、努力したり業績を積んだりして得られるものでもありません。永遠の命をいただけることは恵みであり、神様からの賜物なのです。

 

では、私たちは何をすべきでしょうか。

  • イエス・キリストに感謝を献げます。救ってくださることに感謝します。すばらしい未来をくださったことに感謝します。これが聖餐です。私たちはイエス・キリストに感謝するために集まるのです。
  • パンを食べ、ぶどう酒を飲みます。この世においては、食事をすると、摂取したものが変化して成長に寄与します。聖餐をいただくと、私たちの内にある新しい被造物が成長して、イエス・キリストの似姿になれます。
  • イエス・キリストの体と血による交わりを持ちます。キリストの体、言い換えれば、キリストの命と交わりを持ちます。つまり、私たちはもはや自分自身のためではなく、キリストのために生き、キリストに仕えるのです。キリストの血、キリストの犠牲による交わりとは、キリストと相容れないものを放棄しようということを意味します。

 

すると、聖餐に特別な意味が加わることになります。

  • こんにちの会衆に模範を示します。まだ私たちは、完全な形で、神様との交わり、相互の交わりが持てているわけではありません。しかし神様は、聖餐が執り行われる会衆の中で、会衆の然るべきあり方を示してくださいます。私たちの然るべき姿、然るべき交わりのあり方を示してくださいます。
  • 永遠の交わりを先取りします。会衆は罪の赦しを通して清められ聖別されます。主の周りに集められると、主が一人ひとりにパンをくださいます。すべての人が全く同じものを受け取ります。つまり同じ愛に与り、同じ聖体をいただき、同じパンをいただくということです。永遠の交わりを先取りするのです。ここで主の花嫁は主によって清められ聖別されます。神様との完全な交わり、相互の完全な交わりです。これにより、すべての人が神様から同じものをいただくのです。というより神様からすべてをいただくのです。

原著: Andreas Rother

https://nac.today/en/158033/1273030

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