2024年4月24日 0:00:00 JST

神様は慈しみ深く、私たちを優しくしてくださいます。ですから私たちも慈しみ深い者にならなければいけません。私たちが神様に似た人になれないことは明らかです。しかしイエス様は私たちが向かうべき方向を示してくださいます。

 

 

2024年2月11日、ジャン=ルーク・シュナイダー主使徒はフランスのミュルーズで礼拝を司式しました。聖句はルカによる福音書6章36節が引用されました。「あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。」〔以下、説教の概要〕この聖句は、平地の説教からの引用です。

 

神は慈しみ深い

この慈しみに、私たちは人として与らせていただくことができます。そしてこの慈しみについては、聖書の中で私たちに示されています。

  • 寛容。イエス様が放蕩(ほうとう)息子のたとえを用いて説こうとなさったのは、神様の慈しみと寛容でした。人は原罪の結果、神様から離れてしまいました。神様に背を向けてしまいましたが、神様はそのことを恨んでおられません。常に愛し、戻って来るのを待っていてくださいます。そして帰って来たら、愛情をもって優しく迎え、交わりに入らせてくださるのです。
  • 思いやり。神様は思いやりに溢(あふ)れたお方です。私たちにとって物的に必要としているものに敏感に反応してくださいます。アダムとエバが罪に堕(お)ちると、神様は彼らに身につけるものをお与えになりました。しかし神様が思いやりに溢れておられるのは、何より、霊的に苦しい時です。人は、神様との交わりの中で生きていくために、神様によって創造されました。その交わりが妨げられてしまうと、私たちは―自覚がなくても―おかしくなってしまうのです。神様はこの事態を打開しようと、御子を地上に遣わしてくださいました。
  • 忍耐。神様は今も救いを示しておられます。神様は私たちに恵みの時代をお与えになり、その期間中に悔い改めることができるようにされます。そうすることによって神様の愛と善と寄り添いを、私たちに示してくださいます。
  • 赦し。これは罪人を、罰するのではなく、悔い改めさせる、という考え方です。私たちが過ちを犯した時に、神様は私たちの罪を赦してくださると思いますが、それは、その罪が神様と私たちとの関係に何の影響も与えなくなる、ということです。
  • 優しさ。神様は、人々が享受できるすべてのもの、つまり、イエス・キリストによる栄光、御国におけるキリストとの永遠の交わり、完全を私たちにくださいます。これ以上のものはありません。

 

イエスは慈しみを教えてくださる

神様の慈しみと同等に、私たちが慈しむことはできません。しかしイエス様に倣(なら)って、イエス様がなさったように慈しみを実践することはできます。規則や律法に従うより、慈しみ深くあることの方が大切です。慈しみ深い人は、神様の御国に入る恵みに与れます。このことはイエス様を模範にすると分かります。

 

私たちの慈しみ深さ

イエス様の事例を通して、慈しみの実践を学ぶことができます。

  • 寛容。第一の側面は、人と比べて優越感に浸り、自分は善良で人はそれほど善良ではないという決めつけをしないことです。神様が私たちの欠点や不完全を受け入れてくださるように、私たちも人の欠点や不完全をありのままに受け入れなければいけません。
  • 赦し。神様が私たちを赦してくださるのですから、私たちも赦さなければいけません。赦さなければいけないのは、もし神様が他人に罰をお与えになったとしても、私たちにとって何の利益にもならないからです。イエス様は、私たちがあたかもご自分と同様に勝利したかのように、栄光も永遠の幸福もすべて、私たちにくださるのです。
  • 思いやり。困窮にあえいでいる人々を思いやらなければいけません。この世の問題を解決することはできなくても、思いやることはできます。助けになるためにはまず、話を聞いて、苦難を共感し、一緒に泣き、相手のために祈り、相手を慰め、支えます。助けるためにさらに具体的な行動が求められれば、それをしましょう。思いやるとは、自分の利益より人の利益を優先させることでもあります。そして、私たちが人々の霊的な苦悩を思いやることによって、教会が担っている使命の実現に参画し、私たちの子孫も教会で救いを見出せるようになるのです。
  • 優しさ。人がどう行動するのかによって、善を行うかどうかを決めてはいけません。神様と自分との関係によって判断します。他人に善を行うのは、神様が私たちに善を行ってくださったからです。与えるのは、たくさんくださったからです。基本にあるのは取引とか自己利益ではありません。自分のやったことをすべて数え始めたら、まずがっかりするでしょうし、人に優しくすることが義務感となって克服できず担いきれなくなってしまうでしょう。
  • 忍耐。私たちも忍耐しなければいけません。善が隣人に伝わらないこともありますし、教会の贖いも多くの人には受け入れられていません。受け入れていない人たちのために祈り続けましょう。結果が出そうになくても、忍耐しましょう。そして、礼拝に出席しなくなっている人を、私たちは裁きません。そういう人のために祈り続けましょう。なぜなら祈り続けることが彼らにとって必要であり、それが欠けているということを、私たちは確信するからです。このような人たちのために祈り続けましょう。祈りは役に立つからです。

原著: Katrin Löwen

https://nac.today/en/158033/1273070

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