2024年5月1日 0:00:00 JST

苦しみというのは、必ず経験しなければならないというものでなく、経験したからといって、復活が保証されるわけでもありません。イエス様が苦しまれたのは、復活される前の段階の一つに過ぎませんでした。主使徒は最近の礼拝で、この復活への道をどう歩めばよいかを説いています。

 

 

イエス様はご自身の死と復活を、弟子たちに三度予告されましたが、それを彼らが本当に理解できたのは、実際に起きた時でした。この三度の予告のうちの一つを、ジャン=ルーク・シュナイダー主使徒は2024年3月10日にドイツのミンデンで司式した礼拝で取り上げました。「イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。『今、私たちはエルサレムへ上って行く。そして、人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、嘲(あざけ)られ、侮辱され、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭(むち)打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する』」(ルカ18:31-33)。〔以下、説教の概要〕

 

予告

イエス様はご自分が苦しみを受け、死んで、復活することについて、どうして数度にわたって予告されたのでしょうか。そうすることによって、

  • 今、何が起きても、心配してはならないことをお示しになったのです。すべては神様によってあらかじめ決められており、神様がすべてを支配なさるのです。
  • ご自分が無知でも愚か者でもなく、自身に起ころうとしていることをすべて正確に知っているということを、お示しになったのです。
  • すべては神様の御旨によって実現するものの、イエス様自身に対して強制はなさらないし、人が私に強制しているわけでもないこと、ご自分の同意の上でこの道を歩んでおられることを、お示しになったのです。
  • 預言者が述べているのはご自身についてであることを、お示しになったのです。人の子とは、イザヤがすでに語っていた神様の使者であり、人間を罪から解放するために来て苦しみを受けるべき人物のことです。
  • 「私は苦しみを受け、死ぬが、心配してはならない。復活するからだ」ということをお伝えになったのです。しかし弟子たちにはこの意味が全く分かりませんでした。

 

弟子であること

「今、私はこの道を歩んでいるが、あなたがたが救いを得たいなら、私と同じ道を歩まなければいけない」とイエス様は言われました。このようなことを聞くと、怖くなるかもしれません。イエス・キリストによる救いを得たいなら、イエス・キリストに従わなければいけません。ということは、私たちは殺されなければいけないということでしょうか。ひどい目に遭わなければいけないということでしょうか。ご安心ください。そのようなことをイエス様が求めておられるわけではありません。

 

キリストに従うことは苦しいことではない

もちろん、後代になると、たくさんのキリスト教徒が迫害されました。しかし、すべてのキリスト教徒が迫害されて殉教者になったわけではありません。迫害を受けなかった信徒は、初期の時代にもいたのです。彼らは全く普通の生活をしていました。

 

こんにち、残念であり、とても悲しいことですが、多くのキリスト教徒が迫害されています。しかし迫害されているのはキリスト教徒だけではありません。民族的出自、宗教、意見によって、あるいはただ自分たちと違うという理由で迫害されているのです。このことから、苦しむことが救われるための要件ではないと結論づけることができます。救われるために、この世でつらい人生を歩む必要はないのです。苦しみを受けなくても救われます。キリスト教徒が他の人々よりもひどく苦しんでいるわけではありません。

 

とはいえ、キリスト教徒だからといって苦しみから逃れられるわけではないのも実情です。忠実な神の子だからといって、より良い生活が保証されるわけでもありません。

 

苦悩

キリストに従う人は、苦悩に対処しなければなりません。悪であるサタンは下から出た霊―彼の呼び方はいろいろですが―は、地上の苦しみを利用して、私たちを神様から引き離そうとしています。そればかりか、神様から引き離すための機会を狙っているのです。私たちを苦しめるのは、外部から来た悪い人間だけではありません。時には、私たちに好意を持っている人々によって引き離されることがあります。ですから、イエス様は、「どれほど親しい家族でも神様の御旨ほどは重要でない」ということをはっきりと言われたのです。そうはいっても、最大の試みは、やはり自分自身から出るものです。

 

自制

御子は、神様の栄光、全能性、そして完全性に留まっておられ、人々と交わりを持つために、弱さのある人間として地上においでになりました。逆から見れば、私たち人間が神様に近づこうとするなら、自分勝手にまつり上げた主や主人、神なるものを放棄しなければいけません。なぜなら、自制とは、イエス・キリストがなさったように、神様の御旨を受け入れてそれを行うことだからです。そして、それは奉仕を意味します。イエス様は、弟子たちの足を洗われたことによって、奉仕の姿勢を示されました。キリストに従い、自制することは、隣人への奉仕でもあるのです。

 

小さな群れ

ルカによる福音書12章32節の言葉を現代に当てはめてみましょう。イエス・キリストに従う人は、他の誰よりも「いいね」の数が少なくなるでしょう。主流派に属することは絶対なく、いつも少数派にいることになるでしょう。ある時期になるとどこかで、理解されにくい状況に遭遇することになるからです。抵抗されたり拒否されたりするでしょう。神様の御旨によって、社会は動揺することがあります。しかし私たちがそれに悩むべきではありません。私たちはすばらしい仲間の中にいるのです。イエス・キリストと一緒なのです。

 

希望

こんにちでも、地上でどれほどの苦しみがあっても、私たちはイエス・キリストとの交わりが体験できます。未来を心配してイエス様に近づくと、こう仰せになります。「大丈夫。第一の復活が実現するから。主の花嫁が準備されている最中であり、主の日がやって来る。私を信頼し、唯々私に従いなさい。」この部分が、キリストに従う際の最大の難関かもしれません。いつも主に従い、主の御旨を私たちが生きるための模範とし、主を愛しましょう。そして、神様を信じ、愛し、頼る中で、隣人に奉仕しましょう。そうするならば、こんにちのうちからイエス・キリストが私たちに寄り添ってくださるという神秘的な事実が体験できます。そして、イエス・キリストは、ご自身がおいでになる時に、私たちを御許に連れて行ってくださいます。これは人間による約束ではなく、神様の真理なのです。

原著: Katrin Löwen

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