弱さをさらけ出す勇気 (0.57MB)
28. 4月 2026

怖くなったり恥ずかしいと思ったりすると身を隠したいと思いがちですしかし神様はそのような人が再び人生を歩めるようにお呼びかけをなさいますそのお呼びかけに応える人は配慮平和新たな意味での尊厳に与ります

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恐れと恥は人間のあり方における最も根強い感情の一つです聖書が繰り返し恐れてはならないと命じるのは恐れがいとも簡単に自分自身や他人や神様についての理解を形成してしまうからです聖書の最初の章からイエス様の働きさらには初期の弟子たちの歩みに至るまで恐れと恥によって人が隠れる有様を見て取ることができますしかしこの現実と並行して一貫した希望が伝えられていますすなわち神様は人を隠れ場から呼び出し回復させご自身がなおその人の内に働いておられることを信じるようお招きになるのです

 

恐れと恥が最初に現れるのは創世記の冒頭の章においてです創世記1章と2章では創造された世界が良いもの美しいもの秩序あるものとして描かれていますそしてその記述は印象的な一言で締めくくられます。「人とその妻は二人とも裸であったが互いに恥ずかしいとは思わなかった(2:25)この記述被造物が調和していた事実強調していますアダムとエバは恐れも自己意識のとらわれもなくまた関係も壊れずに生きていました

 

しかし創世記3章においてこの調和は崩れ去りますアダムとエバを誘惑して様に従わぬ者とましたそして目が開け神のように善悪を知る者となるなどと約束します(3:5)けれども二人がその実を食べた結果は啓示ではなく恥と恐れの出現でした彼らはすぐに自分たちの裸を互いに隠そうとして身を覆いさらに神が園を歩まれる音を聞くと木の間に身を隠したのです

 

哲学的に言えば恥とは反映された自己評価の一形態として理解することができます私たちは他者からどのように見られているかを想像しその想像上のまなざしを通して自分を否定的に評価するゆえに恥を感じるのですアダムとエバはこの恥を二つの方向において経験しました第一に水平方向において互いの前にさらされていることを感じました第二に垂直方向において自らの不従順と弱さに対する神のまなざしを恐れたのです

 

しかしこの時彼らを見捨てるのではなく回復しようとする御心ををもって応答されたのですアダムに呼びかけ、「あなたはどこにいるのかと問れますこの問いは情報を求めるものではなく隠れているところから出てくるようにとの招きですさらに神はやさしく、「あなたが裸であることをだれがあなたに告げたのかお尋ねになりますこうしたお尋ね恐れと恥が神に由来するものではないことむしろそれらが人と人との関係そして人と神との関係がすでに損なわれていることを明らかにしているのです

 

しかしアダムとエバが姿を現すとその恥は責任転嫁とスケープゴート(外部リンク)*という形で表れますアダムはエバを責めエバは蛇を責め創造の調和は非難と分裂へと置き換えられていきます彼らの不従順には結果が伴いますがこの物語は一つの印象的な配慮の行為によって結ばれます。「神である主は人とその妻に皮の衣を作って着せられた(3:21)この行為には犠牲が暗に含まれていますは彼らの恥を覆うものを備えられ正義と憐れみの双方を示されたのです

 

これ関連する類型としてイエスが慢性的な出血に苦しむ女性と出会われる場面(マコ5)にも見られますアダムとエバとは異なり彼女の恥は個人的な不従順の結果では社会的な排除と身体的な苦しみから生じています彼女の状態によって儀礼的に汚れたものとし共同体の生活通常通りに参加できないよう彼女を隔離していました彼女の恥はこんにちに至るまで人間が経験し続けている同じ水平方向の側面すなわち他者が私たちをどのように見どのように扱うかに根ざした恥を映し出しているのです

 

それでも彼女はイエス様であれば自分を回復させてくださると信じていました信仰に基づいて行動し彼女は手を伸ばしてイエス様が来ていた衣服に触れましたするとただちに癒されましたそれでもイエス衣服に触れたのかと問われた彼女は恐れつつ自分であると答えましたアダムとエバと同じように彼女もまた自分がさらけ出されている状態にあったのです

 

しかしイエスの応答は決定的に異なっていますイエスによって彼女の存在が規定されることを良しとなさらず彼女を前に呼び出しその信仰を認めるだけでなくご自身に対するより新しく深い信仰を与えになりました彼女の信仰が彼女に完全な健康をもたらしイエスとの出会いを可能にしたのですイエスは彼女に娘よと優しく呼びかけ平和のうちに帰らせましたこのようにしてイエス彼女の病(やまい)を癒しただけでなくその恥の根源そのものを取り除かれました彼女はもはやその状態によって定義される存在ではなく共同体家族に再び加えられその尊厳も回復されたのです創世記において神様によって隠されたこと今やイエス様が癒し変えてくださったのです

 

第三の例はイエス様が十字架刑に処せられたヨハネによる福音書20章に見られます弟子たちは戸に鍵をかけ恐れおののきながら身を隠して集まっていました彼らはイエス様が復活なさったという知らせに確信を持てずまた主を見捨て(いな)んだことへの恥も感じていたことでしょう自分たちが主に背(そむ)いた後でいったいどのようにして再びその師に向き合うことができるでしょうか

 

このイエスかつてがアダムとエバになさったように彼らを隠れ場から呼び出されることはありませんでした逆に恐れに満ちたその隠れ直接足を運ばれたのです彼らのただ中に現れ、「平安があなたがたにあるようにと挨拶されましたその臨在は弟子たちの恐れを喜びへと変えましたそれだけでなくイエスは彼らをその召しへと回復しご自身の証人として遣わし聖霊によって力づけられたのです

 

これらの記述を通して一つの一貫した型が浮かび上がってきます恐れと恥は人を互いから共同体からそして神から隠れさせてきましたしかし神は絶えずに応答し彼らを探し求め前へと呼び出しその傷を癒し彼らの尊厳を回復されましたが彼らを呼び出される確かに大きなことが求められましたが彼らは皆求められた以上のものを受け取りましたアダムとエバは配慮を受け出血に苦しんでいた女性は新しくより深い信仰を与えられて癒されそして弟子たちは復活されたキリストの平和に与ることができたのです

 

このような演出こんにちにおいても信徒の歩みにおいて続いています怖くなったり恥ずかしくなったりするとしばしば自分はダメだ失敗だと決めつけ引っ込み思案になりますしかし聖書はそういう対応をしないようにと伝えていますすなわち隠れたところから一歩踏み出しがなお私たちの内に働いておられることを信じるです

 

こうして弱さをさらけ出す決して容易ではありません自らを誠実(かえり)何も隠さずに神前に立つ勇気必要しかしその後に与えられる約束は深いものですは私たちに憐れみという衣服を着せ私たちにとって出血を癒し共同体へと回復させてくださいます被造物において神良いと宣言されたその良さ失われていませんその良さはなお私たちの内にとどまってい私たちは神のかたちに造られているからです

 

怖くなったり恥ずかしくなったりしても変わることなく招かれていますすなわち隠れてはいけないと招かれています隠れるのではなく皆さんの内に働皆さんを前へと呼び出しそれまで怖がらせていたものを回復希望人生における新しい祝福の源変えてくださること――かつて思いもよらなかったこと――を信じるのです

 

John Schnabel(翻訳:日本新使徒教会)

 

nac.today: New Apostolic Church International

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