怖くなったり恥ずかしいと思ったりすると、身を隠したいと思いがちです。しかし、神様はそのような人が再び人生を歩めるようにお呼びかけをなさいます。そのお呼びかけに応える人は、配慮、平和、新たな意味での尊厳に与ります。
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恐れと恥は、人間のあり方における最も根強い感情の一つです。聖書が繰り返し「恐れてはならない」と命じるのは、恐れがいとも簡単に、自分自身や他人や神様についての理解を形成してしまうからです。聖書の最初の章から、イエス様の働き、さらには初期の弟子たちの歩みに至るまで、恐れと恥によって人が隠れる有様を見て取ることができます。しかしこの現実と並行して、一貫した希望が伝えられています。すなわち、神様は人々を隠れ場から呼び出し、回復させ、ご自身がなおその人の内に働いておられることを信じるようお招きになるのです。
恐れと恥が最初に現れるのは、創世記の冒頭の章においてです。創世記1章と2章では、創造された世界が、良いもの、美しいもの、秩序あるものとして描かれています。そしてその記述は、印象的な一言で締めくくられます。「人とその妻は二人とも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった」(創2:25)。この記述は、被造物が調和していた事実を強調しています。アダムとエバは、恐れも自己意識のとらわれもなく、また関係も壊れずに生きていました。
しかし創世記3章において、この調和は崩れ去ります。蛇がアダムとエバを誘惑して、神様に従わぬ者としました。そして「目が開け、神のように善悪を知る者となる」などと約束します(創3:5)。けれども、二人がその実を食べた結果は、啓示ではなく、恥と恐れの出現でした。彼らはすぐに自分たちの裸を互いに隠そうとして身を覆い、さらに神様が園を歩まれる音を聞くと、木の間に身を隠したのです。
哲学的に言えば、恥とは「反映された自己評価」の一形態として理解することができます。私たちは、他者からどのように見られているかを想像し、その想像上のまなざしを通して自分を否定的に評価するゆえに、恥を感じるのです。アダムとエバは、この恥を二つの方向において経験しました。第一に、水平方向において、互いの前にさらされていることを感じました。第二に、垂直方向において、自らの不従順と弱さに対する神のまなざしを恐れたのです。
しかしこの時、神様は、彼らを見捨てるのではなく回復しようとする御心ををもって応答されたのです。アダムに呼びかけ、「あなたはどこにいるのか」と問われます。この問いは情報を求めるものではなく、隠れているところから出てくるようにとの招きです。さらに神様はやさしく、「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか」とお尋ねになります。こうしたお尋ねは、恐れと恥が神様に由来するものではないこと、むしろそれらが人と人との関係、そして人と神様との関係がすでに損なわれていることを明らかにしているのです。
しかし、アダムとエバが姿を現すと、その恥は責任転嫁とスケープゴート(外部リンク)*という形で表れます。アダムはエバを責め、エバは蛇を責め、創造の調和は非難と分裂へと置き換えられていきます。彼らの不従順には結果が伴いますが、この物語は一つの印象的な配慮の行為によって結ばれます。「神である主は、人とその妻に皮の衣を作って着せられた」(創3:21)。この行為には、犠牲が暗に含まれています。神様は彼らの恥を覆うものを備えられ、正義と憐れみの双方を示されたのです。
これと関連する類型として、イエス様が慢性的な出血に苦しむ女性と出会われる場面(マコ5章)にも見られます。アダムとエバとは異なり、彼女の恥は個人的な不従順の結果ではく、社会的な排除と身体的な苦しみから生じています。彼女の状態によって儀礼的に汚れたものとし、共同体での生活に通常通りに参加できないよう彼女を隔離していました。彼女の恥は、こんにちに至るまで人間が経験し続けている同じ水平方向の側面、すなわち他者が私たちをどのように見、どのように扱うかに根ざした恥を映し出しているのです。
それでも彼女は、イエス様であれば自分を回復させてくださると信じていました。信仰に基づいて行動し、彼女は手を伸ばしてイエス様が来ていた衣服に触れました。するとただちに癒されました。それでもイエス様が「誰が私の衣服に触れたのか」と問われた時、彼女は恐れつつ自分であると答えました。アダムとエバと同じように、彼女もまた自分がさらけ出されている状態にあったのです。
しかし、イエス様の応答は決定的に異なっています。イエス様は、恥によって彼女の存在が規定されることを良しとなさらず、彼女を前に呼び出し、その信仰を認めるだけでなく、ご自身に対するより新しく深い信仰をお与えになりました。彼女の信仰が彼女に完全な健康をもたらし、イエスとの出会いを可能にしたのです。イエス様は彼女に「娘よ」と優しく呼びかけ、平和のうちに帰らせました。このようにしてイエス様は、彼女の病(やまい)を癒しただけでなく、その恥の根源そのものを取り除かれました。彼女はもはやその状態によって定義される存在ではなく、共同体や家族に再び加えられ、その尊厳も回復されたのです。創世記において神様によって隠されたことを、今やイエス様が癒し、変えてくださったのです。
第三の例は、イエス様が十字架刑に処せられた後、ヨハネによる福音書20章に見られます。弟子たちは戸に鍵をかけ、恐れおののきながら身を隠して集まっていました。彼らはイエス様が復活なさったという知らせに確信を持てず、また主を見捨て、否(いな)んだことへの恥も感じていたことでしょう。自分たちが主に背(そむ)いた後で、いったいどのようにして再びその師に向き合うことができるでしょうか。
この時、イエス様は、かつて神様がアダムとエバになさったように、彼らを隠れ場から呼び出されることはありませんでした。逆に、恐れに満ちたその隠れ場に、直接足を運ばれたのです。彼らのただ中に現れ、「平安があなたがたにあるように」と挨拶されました。その臨在は、弟子たちの恐れを喜びへと変えました。それだけでなく、イエス様は彼らをその召しへと回復し、ご自身の証人として遣わし、聖霊によって力づけられたのです。
これらの記述を通して、一つの一貫した型が浮かび上がってきます。恐れと恥は、人を互いから、共同体から、そして神様から隠れさせてきました。しかし神様は絶えず人々に応答し、彼らを探し求め、前へと呼び出し、その傷を癒し、彼らの尊厳を回復されました。神様が彼らを呼び出される時、確かに大きなことが求められましたが、彼らは皆、求められた以上のものを受け取りました。アダムとエバは配慮を受け、出血に苦しんでいた女性は新しくより深い信仰を与えられて癒され、そして弟子たちは復活されたキリストの平和に与ることができたのです。
このような演出は、こんにちにおいても、信徒の歩みにおいて続いています。怖くなったり恥ずかしくなったりすると、しばしば「自分はダメだ。失敗だ」と決めつけ、引っ込み思案になります。しかし聖書は、そういう対応をしないように、と伝えています。すなわち、隠れたところから一歩踏み出し、神様がなお私たちの内に働いておられることを信じるのです。
こうして弱さをさらけ出すのは、決して容易ではありません。自らを誠実に省(かえり)み、何も隠さずに神様の御前に立つ勇気が必要です。しかし、その後に与えられる約束は深いものです。神様は私たちに憐れみという衣服を着せ、私たちにとっての出血を癒し、共同体へと回復させてくださいます。被造物において神様が「良い」と宣言されたその良さは、失われていません。その良さはなお私たちの内にとどまっています。私たちは神様のかたちに造られているからです。
怖くなったり恥ずかしくなったりしても、変わることなく招かれています。すなわち、隠れてはいけない、と招かれています。隠れるのではなく、神様が皆さんの内に働き、皆さんを前へと呼び出し、それまで怖がらせていたものを、回復、希望、人生における新しい祝福の源に変えてくださること――かつて思いもよらなかったこと――を信じるのです。
John Schnabel(翻訳:日本新使徒教会)