1. 6月 2026

軽薄な演出をしたり、やる気を起こさせようと安直な標語を掲げたりしません。六月の礼拝では、キリスト教徒の希望の土台を真に形作っているものは何かを探求します。

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喜びを自分の意志で呼び起こすことはできません。誰かを元気づけようとしたことがある人なら誰でも分かります。それにもかかわらず、来たる日曜日の説教が「聖霊における喜び」を主題としているのは、私たちに宗教的な笑顔を絶やさないよう求めているからではなく、多くの誤解を超えて、キリスト者の喜びというものの本当に意味を探求するためです。探求することによって、最終的に、キリスト教神学における最も異例でありながら美しい希望を私たちに伝えてくれます。それは、神様による平和への思いは死者にまで及ぶということです。

 

喜ぶべき理由の誤り

 

第一日曜日の説教には、見落とされがちな一文があります。「悪霊どもがあなたがたに服従することを喜んではならない。」 イエス様は、悪霊を服従させたことに浮かれる弟子たちをたしなめられます。これが出発点です。聖書をよく知っている人なら、新約聖書において「権威」という言葉が名誉ある称号としてではなく、使命を意味していることを理解しています。本当に重要なのは、何ができる、何が許されているではなく、誰に属しているかということです。これがこんにちのキリスト教徒に意味することは、サクラメントを受けた人は誰でも、自分の名前――自分の職務や熱意ではなく――が天に書き記されているという確信によって励まされるということです(新使徒教会教理要綱4.1、黙3:5)。これを心から信じる人は、自分自身の有能さを誇ることをやめ、喜びとは「属していること」から生まれるのだということに気づきます。これは、日常生活と教会の集いの両方で実感される違いです。

 

奉仕には努力が必要

 

第二日曜日は、奉仕という主題と、そこに喜びを見出せなくなった時に何が起こるかに焦点を当てます。これはかつてもそうでしたし、そしてこんにちにおいても、決して仮定の話ではありません。バビロン捕囚から帰還した後、イスラエルの民は荒廃した都市と家がない現実に直面しました。そのときエズラが民に律法を読み聞かせ、彼らは何世代にもわたって初めて、それが大声で読まれるのを耳にしました。そして民は涙を流しました。ここで言おうとしていたのは「泣くのをやめなさい」ではなく、「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘ8:10)ということでした。ここで極めて重要なことを言っています。エズラは単に律法を朗読しただけでなく、民が理解しやすいように解き明かしたのです。現代の信徒にとって、仕えることを喜ぶのは、気分の問題ではなく、神様のために役に立つことをしているという意識の問題であるということです(ロマ12:11)。この意識によって、奉仕そのものだけでなく、他者に与える影響も変わります。説教を聞くことによって、自身の奉仕がこの識見に基づいているか、それとも形骸化しているかを省みることができます(教理要綱 6.2.3)。

 

揺らぐことのない希望

 

第三日曜日の説教は、「ヘブライ人への手紙」に焦点を当てます。この手紙は、圧力を受けている教会に向けて書かれたものです。「約束してくださったのは真実な方なのですから、告白した希望を揺るぎなくしっかり保ちましょう。」 注目すべきは、この主張が人間の意志の強さや忍耐力に依拠するものではなく、神様が真実であることに基づいている点です。キリストの再臨は、見込みのない願望などではありません。外部の状況の如何に関係なく、神様は約束を守ってくださるという確信に基づいています。信徒にとって、この希望は現在に直接的な影響を与えます。この確信を内に秘めていれば、恐怖を覚えたり諦めたりする必要がありません。説教は、この希望がすでに私たちの行動を形作っているのか、それとも日曜日だけのためにとってあるのかという問いを投げかけます。

 

表舞台に立たないように

 

多くのキリスト教宗派では、6月24日に「洗礼者ヨハネの誕生」を記念するのが慣習となっています。洗礼者ヨハネは旧い契約と新しい契約の過渡期に立つ人物です。この週半ばの礼拝は、この日を記念して行われます。ヨハネについて特筆すべきは、自分の役割を明確に理解し、それを貫いたことです。自分が表舞台に立つべき存在ではなく、道を指し示す存在であることを自覚していました。獄中に捕らえられ、疑念に苛まれてもなお、その役割を貫きました。イエス・キリストの従者であり先駆者である現代の私たちが、自らに問いかけるべき質問はこうです。「自らの信仰を目に見える形にすることにどれほど重点を置いているか。そして、自分が指し示している対象にどれほど重点を置いているか。」

 

死を超えた平和

 

第四日曜日の説教は、一週間後に行われる故人のための礼拝」(教理要綱9.4)に向けて会衆の心の準備を整えるもので、「平和の計画であって、災いの計画ではない」というエレミヤ書29章11節の聖句に焦点を当てます。この聖句は、故郷を失い、確かな未来もない捕囚の身のイスラエルの民に向けて書かれたものです。即座の救済を約束していた偽預言者たちに対抗する目的がありました。対してエレミヤは、「神様の計画は進展しているが、神様ご自身の計画に基づいて進んでいる」と約束します。平和に関する神様のこうした御旨は、生者だけでなく、死者にも適用されます(一ペト3:18-22)。このことを新使徒教会のキリスト者は確信します。罪の赦し、悔い改め、サクラメントは、死んだら受けられなくなるものではありません。これを信じる人は、異なる方法で死者のために祈ります。つまり儀式的な義務からではなく、今なお神様を追い求めている人々のために、心から執り成すのです。既成概念にとらわれずに考えるなら、神様による救いの業は墓の前で立ち止まることはないのです。

Oliver Rütten(翻訳:日本新使徒教会)
 

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