8. 7月 2026

キリストに出会う…。当時の弟子たちにとってそうであったように、キリストの臨在はこんにちにおいても平和、喜び、希望の源泉です。

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「この数日間、祈りを献げ、この礼拝の基調聖句にどこを引用すれば良いかを考えていたところ、ルカによる福音書24章39節が目に留まりました。」ヘルゲ・ムチュラー主使徒補佐(当時)は、オランダのニューウェハインで司式した礼拝の説教の冒頭で、このように述べました。「私の手と足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。」〔以下、主使徒補佐による説教の要約〕

 

これと平行する記述が、復活祭前夜の出来事を綴ったヨハネによる福音書にあります。イエス様が亡くなられたことで、弟子たちは心身共に憔悴しきってしまい、深い悲しみにくれ、人目を避け、身を潜めていました。絶望に打ちひしがれ、自分たちも迫害され殺されるかもしれないと思って恐怖におののいていました。そこに突然、イエス様が彼らの真ん中に立たれたのです。

 

イエスは平和の使者

 

イエス様はただ一言「シャローム、あなたがたに平和があるように」と言われました。弟子たちの疲れ、恐怖、悲しみ、失望は、自分の人生経験に照らせば、理解できます。しかし二人または三人が集まるところに、主イエスは突然真ん中に入って、その場に留まってくだいます。私たちはこうしてイエス・キリストを悟ることができます。イエス様がいらっしゃるところにあるのは、動揺でも不安でもなく、静寂と平和です。

 

イエスは生きておられる

弟子たちはひどく怯(おび)えていました。恐れおののき、自分たちの真ん中に立っているのは幽霊ではないかと思っていました。そこでイエス様は改めて「私の手と足を見なさい」と言われました。その手で、子どもを祝福し、足の不自由な人を癒されました。その足で、皆さんと共に歩み、皆さんのあらゆる悩みやあらゆる疑問と共に歩んでくださいます。皆さんがどれほどの苦痛にあっても、一緒に歩んでくださいます。皆さんの十字架を、一緒に担(にな)ってくださいます。皆さんが一生を終えるまで、一緒に歩んでくださるのです。

 

イエス様の手足に刻まれた傷は、イエス様の愛と苦しみを証明しています。苦しみの意味、悲しみの意味、痛みの意味を、イエス様はご存じなのです。イエス様は幽霊などではなく、本当に皆さんと一緒にいてくださいます。キリストはここに、その傷と共におられます。本当にここに、平和と共にいてくださるのです。

 

実在と真理のイエス

 

イエス・キリストは弟子たちに「まさしく私だ」と言われました。イエス様の復活は象徴でなく、人間の歴史で現実に起きた事柄です。本当に生きておられ、今もいらっしゃいます。イエス・キリストは命であり、復活であり、真理なのです。

 

イエス・キリストの復活を認めない、一部の神学的立場もあります。科学的に不可能であり、霊的な復活に過ぎない、という主張です。しかし、私たち新使徒教会は、これと異なる見解をとっています。主イエス・キリストの復活を実際に起きた事柄として信じ、そのように教えています。

 

イエスは手の届くところにおられる

 

イエス様は弟子たちに「触ってよく見なさい」と言われました。ここでイエス様は、新約聖書全体の中で最も素晴らしいことの一つを招いておられます。すなわち「私はあなたに触れることができる者である。あなたとの関係を築くことができる者である。私は人であるから、近くにいる。私に触れ、あなたの腕で受け止めなさい。」

 

「どうやってイエス様と共に生きるのか。」信仰において重要なのは、すでに亡くなった愛する人のように、イエス様を単なる思い出の存在にしてしまうのではありません。信仰を生きたものとする、つまり、イエス様に触れ、イエス様を腕で受け止め、イエス様に何でもお話しすることが重要なのです。

 

「あなたがたを心から愛している」

 

弟子たちは喜びのあまり、何が起きているのかほとんど理解できていませんでした。キリストと真に出会うことによって、心は喜び、平和、新たな希望で満たされます。喜びのかけらもないなら、主をお招きして「真ん中に来てください」と申し上げましょう。

 

第一の復活の日がやって来ます。この時、私たちは新しい体を身にまとうことになります。イエス様はご自分の民を御許に迎え、永遠の平和を与え、民をご覧になり、こう仰せになります。「私はあなたがたを心から愛している。」

Sophie Berg
翻訳:日本新使徒教会

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