どうすれば天国に行けるでしょうか。言い方を変えれば、どうすれば完全な調和を成し遂開いている扉を通る道げられるでしょうか。放蕩(ほうとう)息子の兄は、ここで反面教師の役割を演じています。礼拝の中で、主使徒)はその完全な調和を実現するための方法を示しています。
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「親父の所に帰ろう。」どん底を味わった放蕩息子は、この思いを胸に抱いて家路につきました。これはルカによる福音書第15章でイエス様が話されたたとえ話です。放蕩息子は、自分が想像したより、をはるかに超えるほど温かく、父親に迎え入れられました。
ここまでは、よく知られているお話です。しかし、2026年6月21日にドイツのカールスルーエで行われた礼拝の中で、ヘルゲ・ムチュラー主使徒は兄の行動に焦点を当てました。この若者は、父親が用意した楽しい祝会が行われているのを見聞きしながら、心は傷つき、恨み骨髄で外に外にいたままでした。
自ら閉ざしてしまう
すべての信徒にとって気をつけなければならないことがあります。この祝会は天国を表しています。御父と御子との交わり、天国にいるすべての人々の交わり、様々な点で異なる人々が一つに結ばれている様子を表しています。愛にある完全な交わりです。この祝会に、どうすれば入ることができるでしょうか。どうすれば天国に入ることができるでしょうか。
決して、あの兄のような態度を示してはいけません。「私は常にすべての戒めを守ってきたのに、弟は放蕩の限りを尽くしました。私は評価されるべきです。彼は違います。そしてお父さんは私には何もくれなかったのに、彼にはすべてをお与えになりました」と文句を言ったのです。主使徒はこの姿勢を、虚栄心と利己心という二つの言葉で要約しました。このような態度では、相手との関係を悪くしますし、一つになることもできません。
尊敬と配慮
使徒パウロはフィリピの信徒への手紙2章3~4節で、分裂状態にあった会衆に対してこう書いています。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。めいめい、自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。」
「謙虚」を意味する当時のギリシャ語は、奴隷の卑屈さを指していました。恥ずべきこととされていました。しかし、パウロがこれを「尊厳」という言葉と組み合わせることで、謙虚であることの価値観を根本から変えました。たとえ最も小さく、最も取るに足らない、最も弱そうな人であっても、その人を「王であるかのように敬いなさい」ということなのです。
また、これは自分自身にとって必要なことを軽視しろ、ということでもありません自分自身のこと「ばかり」考えるのではなく、人が必要としていることにも目を向けなければなりません。十分できそうですよね。
取り残される恐怖
考えれば考えるほど、「自分の努力だけでこの戒めを守ることはできない」ということがはっきりします。すると、究極の疑問が生じます。「なぜそういう行動をしてしまうのか。なぜ利己心、虚栄心、自分への執着が、自分を支配してしまうのか」ということです。
しかし、答えは驚くほど簡単です。それは「恐怖」です。人に見てもらえない恐怖。取り残されるのではないかという恐怖。つまり、深い意味での困窮なのです。この恐怖に対する特効薬として、ヨハネの手紙一4章18節に次のように書かれています。「完全な愛は、恐れを締め出します。」
自分の努力ではなく
「しかも、この愛は私たち自身のものではありません。イエス・キリストの愛です。キリストの愛だけが、この恐怖を払拭できるのです。そして、この問題の本質に行き着きます。つまり、大切なのは、謙虚になろうと努力することではなく、私たちの目を絶えずイエス・キリストに向けることなのです。
先ほど引用したフィリピの信徒への手紙の続きは、キリスト賛歌として有名です。イエス様が神様の栄光から人間として質素な生涯を送り、十字架の死をもって頂点に達したその歩みを、パウロは綴(つづ)っています。キリスト—特にキリストの謙虚さ—に目を留めると、私たちの内面において、何かが変化します。
開いている扉を通る道
私たちを翻弄している恐怖が消えます。認められたいという欲求〔自己承認欲求〕に支配されなくなります。どうしてでしょうか。キリストが私たちを見ていてくださるからです。愛してくださるからです。必要なものを全部くださるからです。
最後に、ムチュラー主使徒は、放蕩息子が帰って来た時の祝会に話を戻しました。天国の門は開いています。大事なのは「利己心やうぬぼれにはまって、門の外に居続けているのか。それとも、キリストのような謙虚さを身につけているかどうか」です。私たちはいつでも招待を受けています。道は開かれているのです。
Andreas Rother(翻訳:日本新使徒教会)