誘惑にどう対処しますか。これは、イエス様が荒れ野で試みを受けた時の対応から学ぶことができます。この出来事は、神様の言葉が持つ力を実証しています。
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注目すべきことに、イエス様はどの試みに対応するにも、聖書を引用しておられます。聖書が教えに役立つというだけでなく、聖書に霊的な力があるということです。神様が聖書の著者であり、聖書は神様の啓示を証しするものです(教理要綱1.2→)。それゆえイエス様は、試みに直面すると、ご自身の力や議論に頼らず、もっぱら神様の言葉を信頼されました。
イエス様は三つの試みに対して、モーセ五書の五つ目である申命記を引用されました。これは。荒れ野をさまよっている時に生まれ育った当時のイスラエルの民にむけて書かれたものです。振り返ると、イエス様が引用されたものは、イスラエルの民による荒れ野の旅、彼らが受けた試みや誘惑、神様の誠実さを思い起こさせるものでした。イスラエルはこの時、自らを証しし、完全に神様の御手に委ね、神様を信頼する必要がありました。
1. 神のご配慮を信頼する
一般論として、イエス様は四十日にわたって荒れ野で断食しておられたため、悪魔はまず食べることについて試みる必要がありました。そこでイエス様に向かって、石をパンに変えてみよ、と言いました。
これは、神様がイスラエルの民にマナをお与えになったという、申命記8章3節からの引用です。神様は、民が空腹になるのを容認されながら、マナをお与えになりました。彼らはこのマナをそれまで味わったことがありませんでした。彼らは食べ物だけで生きるのではなく、神様のご配慮や御言葉によって生きるということを、神様は彼らに学んでほしいと願われたのです。神様は必ずしも人々の思い通りのものをくださるわけではありません。御心にあるものをお与えになります。
2. 信仰は証拠を求めない
二度目の試みとして、悪魔はイエス様に向かって神殿の端から飛び降りるように言いました。するとイエス様は申命記6章を一部引用されました。ここには次のように書かれています。「あなたがたがマサで試したように、あなたがたの神、主を試してはならない。」
このマサで、かつて何があったのでしょうか。イスラエルの民は旅を重ねて、レフィディムに宿営しました。水がなかったため、彼らはモーセを責め立て、神様がおられることに疑いを持ちました。状況が悪化し、モーセは自分が石を投げられて殺されるのではないかと思いました。神様がモーセに岩を打たせると、そこから水が出て、イスラエルの民はその水で渇きを癒しました。そこでモーセはこの場所を、証拠と言い争いを意味する、マサとメリバと命名しました。
3. 忠誠は取引に優る
最後にサタンは、苦しみや十字架の道を歩むことなく、権力と栄光を得るための手っ取り早い解決策をイエス様に提示しました。「あなたの神、主を畏れ、主に仕え…」という申命記6章13節を引用したイエス様の対応は明確でした。崇めるにふさわしいお方は神お一人のみ、ということです。
というのも、イスラエルの民は、神様に背を向け、異国の神々を拝んだのです。日常の諸問題に対する即席の解決策を提示するモレク、バアル、アシェラ、ダゴンといった偶像崇拝的なカルト宗教に惹(ひ)かれていました。楽に思える道を求め、エジプトに引き返したいとまで何度も思っていました。
本当の王は、自らの権力を行使する者ではなく、神様に仕える者である、ということをイエス様は明らかにされました。イエス様は王となられますが、妥協によってではなく、誠実さと犠牲によって、王となられます。こんにちにおいても、人はよく目先の解決策を探し、神様を待つ準備ができている人はほとんどいません。
聖書を解釈する悪魔
ずる賢い悪魔は、聖書の一部である「主はその使いたちに命じて…彼らはあなたを両手で支え/足が石に当たらないようにする」という詩編91編11~12節の引用までしています。この言葉を、一種の白紙委任で提示したのです。
悪魔は、神様の守りが実際のところどこにあるのかということを、つまり「あなたのすべての道を」の部分を意図的に省いています。この部分は極めて重要です。というのは、神様がいつでもどこでも無条件に人々をお守りになる、という意味ではないからです。箴言や詩編では、よく正しい人の道と悪い人の道を区別しています。例えばこの詩編の言葉も、ただ「可能な限りすべての道を」ではなく、「神様の御旨に適う道を」と理解すべきなのです。
悪魔は聖書を理解していても、イエス様はその聖書に完全に適う生き方をしておられます。イエス様ご自身が真理だからです。聖書単体では悪用される可能性があっても、イエス様によるならば、正しく理解し実践することができます。「言(ことば)は肉となって、私たちの間に宿った。…恵みと真理とに満ちていた」(ヨハ1:14)。そしてイエス様ご自身が真理であるため、聖書はこんにちにおいてもキリストに基づいて解釈するのです(教理要綱1.2.5.2→)。
Simon Heiniger(翻訳:日本新使徒教会)