20. 8月 2026

「恐れてはならない、ただ信じなさい。」2026年の標語は、私たちに神様を信頼するよう求めるものです。コンゴ民主共和国西部教区の牧会を担当するエリー・ムキンダ教区使徒は、どうすれば簡単に信頼できるかを教えています。

〔記事をダウンロード(印刷)する場合は、画面下「Documents」のタイトル部分をクリックしてください。〕

 


信じるとは、毎日絶え間なく決意するものです。信頼とは、相手や対象の善意、能力、信頼性に身を委ねることです。日常の単純な活動においてさえ、信頼は不可欠な糧となります。そうでなければ、極めてストレスの多い人生になってしまうでしょう。


例えば、操縦士に向かってどこの大学を出たのか、指導付きの飛行を何回こなしたか、指導なしの飛行を何回飛んだかなどと尋ねてから飛行機に乗る人はいません。ただ無事に到着するという安心感をもって飛行機に乗るのです。これが信頼というものです。


天気、株式市場、銀行、科学的予測、政府を信頼することが、本能的に慣習のようになっています。しかし、予測が期待通りに実現せず、100パーセント信頼できるわけではないということもあります。それでも、これらの専門知識に対する私たちの信頼が揺らぐことは滅多になく、一般的にはその不確実性を理解しようとする傾向さえあります。


対照的に、神様の愛、慈しみ、知恵、全能性において、不確実ということは絶対にありません。神様の御約束と御言葉は、常に確実であり信頼できるものです。「神は真実な方」というのは私たちの信仰における根本的教理であり、聖書全体や私たちの生活に密接に浸透しています。


神様を信頼するならば、 私たちが抱くすべての疑問に答えがあるわけではないと分かっても、前に進みます。必ずしもすべてを理解したり悟ったりしているわけではなくても、前に進みます。なぜなら、すべての答えをお持ちである方を私たちは知っており、その方に自分自身を委ねているからです。これこそが信頼であり、信仰の大切な面なのです。


優れた模範が、信仰の父アブラハムです。父祖の地を旅立った彼に「アブラハムさん、あなたはどこへ行くのですか」と尋ねたとしましょう。すると彼は「分かりませんが、それを知っておられる方を私は知っており、必ず到着すると分かっているので前へと進んでいます」と答えたはずです。同様に、アブラハムが献げ物を準備するためにイサクと一緒にモリヤ山へ向かっていた時、イサクはアブラハムに「献げ物はどこにあるのですか」と尋ねました。「神様が用意してくださるよ」とアブラハムは答えました。つまり「私には分からないが、知っておられる方を私は知っている。神様が備えてくださる」というわけです。


外的な環境や自然環境に関係なく、神様を信頼する人の人生は、最終的に、この「神が備えてくださるのだ」という安心感から生まれる平和、静けさ、そして絶え間ない喜びに満ち溢れます。このことを説明するのに、聖書では、水のほとりに植えられた木(エレ17:7–8)、山(詩 125:1)といったたとえを用いています。他にもイザヤ書には次のようなたとえがあります。「主を待ち望む者は新たな力を得/鷲のように翼を広げて舞い上がる。/走っても弱ることがなく/歩いても疲れることはない」(40:31)。神様を確信する人は、飛ぶ時も、走る時も、歩く時も、疲れることのない尽きぬ力が与えられるのです。

Andreas Rother(翻訳:日本新使徒教会)

nac.today: New Apostolic Church International→

←ホーム