救いを受け、福音を広め、祝福を分かち合い、新たな力を得る——九月の主日礼拝を通して、私たちは前へと推し進める信仰を教わります。
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三者の証し、一つの救い
「霊と水と血です。この三者の証しは一致しています。」ヨハネの手紙一からのこの一節をもって、9月6日の第一主日礼拝が開かれます。一見不可解に思えるこの言葉は、神様による御業の核心へと私たちを直接導いてくれます。
水はイエス様の洗礼を思い起こさせ、血は十字架上におけるイエス様の死を指し、聖霊はイエス様が救い主であることを証ししています。洗礼、御霊の証印、聖餐というサクラメントも認められます。このようにして、救いは単なる約束にとどまらず、目に見え、触れられるものとなるのです。
洗礼と御霊の証印によって、キリストにおける新しい命と、キリストの再臨に与る機会が提供されます。聖餐において、信徒はキリストとの交わりにとどまるための力をいただきます。では、これらによって私たちの日常生活はどう変わるのでしょうか。九月の主日礼拝では、この点について深く探求していきます。
神殿から家まで
初期のキリスト者たちは、信仰と日常生活を厳格に区別していませんでした。家々でも境内でも教え、福音を告げ知らせました。福音が私的な生活の一部となり、同様に公的な生活の一部でもありました。これが9月13日に行われる礼拝の主旨です。
神殿とは、キリスト教の信仰が目に見えて現れるすべての場所の象徴です。会衆の中で、職場で、あるいはより広域な場で、信仰が現れます。一方で家々とは、家族、友人、牧会にとっての親密さ、信頼、交わりの象徴です。どちらの場においても、単なる言葉にとどまらないものを通して福音を宣べ伝えます。
しかし、こんにち、信ぴょう性をもって良き知らせを分かち合うにはどうすればよいでしょうか。九月第二主日礼拝では、現代的な方法を模索します。
祝福に触れ
「これらすべての祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶ。」9月20日の聖句は、祝福が私たちを通り過ぎてしまうことがほとんどないということを説いています。ところで、祝福とは一体何でしょうか。健康であること、成功すること、困難のない人生でしょうか。
旧約聖書において、祝福は神様の契約およびイスラエルの民が従順であることと密接に結びついています。イエス・キリストは、私たちの視野を広げてくださいます。本当の祝福は神様との交わりに存在し、永遠の命にまで至るものなのです。
この祝福は、礼拝での御言葉、サクラメント、祈りを通じて触れることができます。しかし、祝福はそれに留まりません。「皆さんが祝福となります。」祝福を受ける人は、祝福の源となるのです。第三主日礼拝では、これが実践面でどのような形をとるのかを考えます。
翼をもって待ち望む
「鷲のように翼を広げて舞い上がる。走っても弱ることがなく、歩いても疲れることはない。」預言者イザヤは力強いたとえを用いて、力を使い果たしてしまった人々に語りかけています。これがが9月27日に行われる礼拝の主旨となります。
多くの人にとって、疲労困憊は日常生活につきものです。すると「神は自分が背負っているものを本当に見てくださっているのだろうか」と感じます。イスラエルの民も似たような思いをしていました。これに預言者イザヤははっきりと次のように答えています。「神様は誰一人として見落とされません。神様の配慮から外れる人は誰もいないのです。」
主を待ち望むとは、手をこまねいて何もしないという意味ではありません。自覚をもって神様に心を向け、神様を信頼し、状況がすぐに変わらなくてもいつも忠実でいることです。神様が約束しておられるのは、一瞬の爆発的な力でなく、新たな力、つまりどれほどの重荷でもそれに耐えられる力、日々蝸牛(かぎゅう)の一歩を踏み出すための力なのです。
Andreas Rother(翻訳:日本新使徒教会)