7. 10月 2026

涙を流すのは人生のほんの一部です。しかし、涙で終わることはありません。ムチュラー主使徒はロイリンゲンでの礼拝で、必ず訪れる喜びの収穫について説教を行いました。

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2026年8月30日(日)、ヘルゲ・ムチュラー主使徒は、南ドイツ教区に属するドイツのロイリンゲンで礼拝を執り行いました。マルティン・ラインベルガー教区使徒が礼拝の実行委員長を務めました。また、クブバ・ソコ教区使徒(ザンビア)、ヘルムート・カスパー使徒(北東ドイツ教区)、マイク・ディーテル使徒(北東ドイツ教区)も来賓として出席しました。


説教は詩編126編5~6節に基づいて行われました。「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行く人も/穂の束を背負い、喜びの歌と共に帰って来る。」主使徒は収穫の時期に言及し、次のように述べました。「ここで、畑の大部分はすでに収穫を終えています。収穫の時であると同時に、種を蒔く時でもあるのです。」〔以下、主使徒による説教の要約〕


なぜ涙と共に種を蒔いたのか


詩編の作者はバビロン捕囚後のイスラエルの人々を描写しています。故郷へ戻った彼らは「夢を見ている人のよう」でした(詩126: 1)。しかしエルサレムで彼らが見たのは破壊後の残骸だけでした。廃墟そのものでした。彼らの気持ちは喜びから悲しみに変わっていったのです。


2,500年前、人々は過酷な環境によって、しばしば涙と共に種を蒔くことを余儀なくされました。その種は父親が所有する最後のもので、もともと空腹の子供たちに必要なものでしたが、命を繋ぐために父親は種を蒔きました。創世記3章17~19節に書かれているように、罪があるところには、涙、痛み、苦しみ、嘆きがあるのです。


泣いてもよい


泣いていると、まるで居場所がなくなるかのように、隅に追いやられてしまうことがよくあります。特に私たちの教会では「喜んでいるべきであって、涙なんて」と思われがちです。しかし詩編56編には、神様が私たちの涙を皮袋に集めてくださると書いてあります。泣いても構いません。涙を流す場所はあります。悲しみに暮れている人々も同様に泣くことはできるのです。


ヘブライ語の原文では、6節は「泣きながら行き来する」とも読めます。これは、ラザロの墓で涙を流されたイエス・キリストを指しています。イエス・キリストも人でしたから、涙を流されます。子供たちが泣いていれば、主イエスの隣に座って一緒に泣いてくださるのです。イエス様には思いやりがあるからです。


一粒の麦と喜びの収穫


ヘブライ人への手紙5章7節に「イエスは深く嘆き、涙を流しながら、神に祈りと願いとを献げ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられた」と書いてあります。イエス様はラザロを墓から呼び出されましたが、これを見た権力者たちはイエス様の殺害を決意しました。しかし、イエス様は、死なれたことによって、真の神であり真の人としてなし得る最大の種蒔きを成し遂げられたのです。


ヨハネによる福音書12章24節にはこう書かれています。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」復活祭は喜びの収穫であり、死者の復活も同様に訪れます。直訳すれば「いつも泣きながら出て行く」となります。どう歩めばよいか悩んでいるすべての人に、涙や悲しみの中でも、自らの足で歩むことのできる道を、神様が与えてくださいますように。


家庭、共同体、社会での種蒔き


信仰によって子供を育てることも、涙と共に種を蒔くことの一つです。敬愛するお母様、お父様の皆さん、どうか種をひたすら蒔き続けてください。同じことは会衆にも言えます。聖霊からの賜物を誰もがいただいているからです。年配の教役者は、若い執事や牧師が50年前に自ら蒔いた種を収穫する時に、共に喜ぶことができます。


善を行う人々は、時として自分たちの分が十分に残るだろうかと不安になることがありますが、はっきり申し上げます。皆さんには十分に残ります。善行はすべて記録され、必ず収穫をもたらします。イエス・キリストへの信仰を告白することも一種の「涙と共に種を蒔く」ことです。例えば、キリストに敵対する環境で横行する嘘や誹謗中傷への同調を拒む場合などです。社会にとってはこの、拒むことが必要なのです。


キリストの再臨と平和王国


イエス様は生涯を閉じられる少し前に、エルサレムを見下ろしながら再び涙を流されました。私〔=主使徒〕は、この世の有様を嘆いて涙を流された、と解釈しています。こんにちにおいて、憎悪や不和を目の当たりにすると、絶望的になることがあります。今回の聖句の最後「喜びの歌と共に帰って来る」という記述は、原文では故郷への帰還を指していると解釈することもできます。これこそが新使徒教会として私たちが告げ知らせていることです。すなわち、イエス・キリストは花嫁をご自分の家に連れ帰るために戻って来られます。


しかし、これは花嫁だけに与えられた特権ではないということを、強調しておきます。千年の平和王国の期間中、種を蒔き続けるという務めも、花嫁には与えられているのです。すべての人が真理を知るようになることが神様の御旨です。姉妹の皆さん、兄弟の皆さん、私から皆さんへ、そして私自身に対して、お願いが一つあります。どうか、ひたすら種を蒔き続けてください!


Oliver Rütten(翻訳:日本新使徒教会)

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