賛美歌、祈り、親しみのある宣言。聖餐は一定の順序に沿って執り行われます。しかしそこには目に見える以上の意味が込められているのです。
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「主の晩餐が整いました。」聖餐杯の蓋を開け、ウエハースを準備する。これは、これから行われることを宣言するものです。すなわち、イエス・キリストが会衆と共になさることを宣言するものです。新使徒教会の礼拝における、まさに核心部です。
このサクラメントのために会衆が準備しそれに与る過程は、段階を追って展開していきます。会員向け雑誌「コミュニティ」2026年第3号及び第4号に掲載された二つの記事では、この聖餐について詳しく解説されています。「礼拝の手引き」2025年特別第2号に掲載された論文に基づいています。
振り返りが旅の始まり
聖餐杯の蓋が開く前に、会衆は内面を見つめます。「どこで罪を犯してしまったか。何を反省すべきか。誰と和解する必要があるか。」これらが悔い改めの典型例です。正直に自己を検証し、罪を自覚し、変わろうとする姿勢が必要です。そして人を赦すことも悔い改めの一つです。悔い改めの賛美歌――あるいはひとときの静寂――を通して、この振り返りをするのです。
しかし、悔い改めは礼拝の一瞬だけで良いわけではではありません。「キリスト者の信仰生活全体における不可欠な要素であり、自分が不完全であり神様の恵みに全面的に依存していることを自覚すること」と、教理論文は強調しています。
そして、会衆は起立し、主の祈りを唱えます。このイエス様が教えてくださった祈りには、「我らの罪を〔も〕赦し給え」という悔い改めの祈りと「日用の糧をきょうも与え給え」という食を求める祈りの二つが結び付いています。
その場限りでも形式だけでもない
主の祈りに続いて、罪の赦しが宣言されます。「生ける神の御子、主イエス・キリストの御名により、あなたがたの罪は赦されました」と司式者は宣言します。ここでは役割分担が非常に重要です。罪を赦すのは、神様です。使徒や使徒の委託を受けている人物は、この赦しを宣言しているに過ぎません。こうして「罪を赦すのは司式者ではなく神様」であることを保証することによって、悔い改めを行う人物は、神様の恵みが自分に与えられることを確信できます。
罪の赦しを聞くことが、自ずと赦しにつながるわけではありません。心から悔い改めと赦そうとする気持ちがなければ、この宣言が十分な効果を上げることはできません。ただ何より「神様は教役職や教会とは無関係に罪を赦すことができる」という原則は有効です。
続けて聖餐の祈りが行われますが、嘆願から感謝を献げる内容となります。イエス・キリストによる犠牲によって、赦しとサクラメントが可能となったことが祈りの中心です。また、ここでは聖霊にも直接祈りを献げ、会衆を強めてふさわしい姿勢で主の晩餐をいただいて、救いに与れるようにくださるよう願い求めます。
言葉の力
「これから、聖餐を執り行います。」この通告を以て、本格的に聖餐が始まります。聖餐杯の蓋を開け、食卓を準備します。次に、パンとぶどう酒を取り分けて、聖別します。
主の晩餐に向けて行われる聖別のための式文には、多くの視点があります。この式文を通して、まず三位一体なる神様の御名によることに触れ、ひとたび献げられた〔唯一無二である〕永遠に有効なイエス様による犠牲であることを思い起こさせ、イエス様が聖餐を制定された際の言葉を引用します。最後に「主がおいでになる時まで〔、主の死を告げ知らせるのです〕」と未来の事柄に触れます。
新使徒教会の見解として、パンとぶどう酒は、聖別の過程において、その成分を保持し続け、そこにキリストの体と血の成分が結合します。「実体」とは、イエス・キリストがご自身の体と血によって実際にいらっしゃる、という意味です。
聖餐に必要な前提条件は、パンとぶどう酒、制定の宣言、使徒職からもたらされる権限です。つまり、牧師が言い間違いをしたからといって聖餐が無効になるわけではない、ということです。司式者個人の弱さが原因で聖餐の効果が阻害されるわけでもありません。キリストがこのサクラメントの主なのです。キリストの臨在をもたらすのは聖霊なのです。
一人ひとりに届く二つの言葉
まず、司祭職が聖餐をいただきます。司祭職自身も、これから自分が分け与える賜物に依拠しているからです。次に、会衆を招待します。主人はイエス・キリストご自身です。
「これはあなたに与えられたイエスの体と血です。」そしてキリストの体と血をいただきます。聖餐によって、キリストと使徒との絆、キリストと信徒との絆、会衆間の絆が創られます。主の食卓を囲んで、交わりが生まれるのです。
聖餐は、聖餐杯の蓋を閉じるところで締めくくりとなります。ウエハースにおけるキリストの体と血の臨在も、同様に終了します。しかし聖餐の及ぼす範囲は、さらに先へと広がっていきます。聖餐を執り行うたびに、イエス・キリストの再臨を、そしてキリストとの完全なる交わりへの希望を示唆しているからです。
Andreas Rother(翻訳:日本新使徒教会)