31. 10月 2026

死は終わりではありません。そして天国は単なる憧れの場所にとどまりません。様神が人類のために用意されているものは、この地上での人生をはるかに超えたものです。11月の主日礼拝では、私たちの先に待つものについて掘り下げていきます。

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出口が見えない時


どん底に突き落とされ、どこにも出口がない状態。詩編第130編に登場する人物はまさにそのように感じています。「主よ、深い淵の底からあなたに叫びます。」これほどまでに彼を追い詰めたものは何だったのでしょうか。どうやらそれは自身の過ち――自分自身の力ではもはや取り返しのつかない過ちのようです。それでも詩編の著者はは諦めようとしません。逆に、耳を傾け、赦してくださる神様に信頼を寄せるのです。


このような主旨で、11月1日に行われる故人のための礼拝が行われます。死後であっても、そのような絶望的な状況に置かれる人々がいます。すなわち、罪と不信仰によって神様から隔てられた状態です。しかし、イエス・キリストはその犠牲を通じて、この深い淵に橋を架けてくださいました。この橋は、陰府(よみ)へと伸びています。


このことは生者、そして死者にとって何を意味するのでしょうか。そして執り成しの祈りはどのように役立つのでしょうか。11月最初の日曜日は、死をもってしても私たちから奪うことのできない未来を指し示しています。


天が基準となる時


皆さんはどこに「我が家」を感じますか。その答えは一見簡単そうに思えます。自分が暮らしている場所、家族や友人がいる場所です。しかし使徒パウロは、もうひとつの故郷を提示しています。「私たちの国籍は天にあります」(フィリ 3:20)。


11月8日(日)からは3回にわたり、私たちの未来に関する事柄を連続で扱います。その中心にあるのは、何よりもキリストの再臨です。そしてこれは、すでにこんにちにおける私たちの生活にも影響を及ぼしています。


パウロは、人々がローマの市民権にどれほどの誇りを持っていたかを知っていました。しかし、キリスト者は何よりもまずキリストに属する存在です。したがって、彼らは富や快適さではなく、福音の価値観という別の基準に従って人生を歩むべきです。これを日常においてどう具体化することになるのでしょうか。小さな一歩が大きな効果をもたらすのです。


すべてが明るみにされる時


隠されたままの事柄があります。誰にも気づかれない善行。誰にも知られていない過ち。そして、決して明るみに出ることのない不義。少なくとも、人間の手によって明らかにされることはありません。しかし、神様のもとでは話が別です。「神は善であれ悪であれ/あらゆる隠されたことについて/すべての業を裁かれる。」(コヘ12:14)。これが11月15日の聖句です。


「裁き」という言葉を聞いて最初に思い起こすのは、告発、非難、処罰です。しかし、神様の裁きにはもう一つの側面があります。それは正義を確立することです。どんなことも見過ごされることはなく、誰にも気づいてもらえなかった善も忘れられることはありません。このことは、私たちが自分の人生をどう見るかにおいて、どのようなどのような意味合いを成すのでしょうか。すべてをご存じの神様を恐れるのでしょうか。それとも、すべてをご存じの神様だからこそ、信頼できるのでしょうか。


すべてのものが新しくされる時


もはや涙はありません。苦しみも痛みもありません。私たちがこれまで知っていたものとはまったく異なる世界。ヨハネの黙示録は新しい創造をそのように描写しています。そして神様は次のように約束しておられいます。「見よ、私は万物を新しくする」(黙21:5)。


11月22日は、神様による救いのご計画が目標としている、人類と神様との完全な交わりに焦点を当てます。神様は罪によって失われたすべてのものを回復させ、永続させてくださいます。


しかし、この未来を、こんにちにおいて私たちはどれだけ感じられるでしょうか。そして、まだ誰もその実現を見ていない約束を、どう信じればよいのでしょうか。


想像を絶することが現実となる時


「どうして、そんなことがありえましょうか。」当然の疑問です。何しろ、天使ガブリエルがマリアの人生を根底から覆すような出来事を告げたばかりだからです。これが、待降節第一主日である11月29日の主題です。この日は新しい教会暦の始まりであると同時に、前の日曜日までの主題を引き継いでいます。すなわち、神様は人間の想像を超えた未来を約束しておられるということです。


マリアはこれを理解できませんが、神様を信じました。キリスト再臨を待つキリスト者は、このマリアの姿勢を模範とすべきです。結局のところ、復活も、変貌も、携挙(けいきょ)も、人間の理解の限界を超えた出来事です。限界を超えたら、さあ、私たちはどうすべきでしょうか。


Andreas Rother(翻訳:日本新使徒教会)

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