5 神の戒め
神は人類に、戒めを与えられました。戒めの中で神は、人類のためになろうとする御旨を宣言しておられます。戒めは、人が神との関係をどう構築していくべきかを示しています。また、人間同士が建設的な関係を築くための基礎でもあります。
神が全知全能で慈愛深いお方であることを、信仰によって受け入れる人は、神の御旨を尋ね求め、自分の考え方や振る舞いを御旨に合わせる、つまり神の戒めに従わせようと努力します。
神が戒めを与えられたのは人類を愛しておられるからです。このことを認識していれば、罰を恐れてではなく、神を愛する故に戒めを実行します。
イエスは、「律法の中で最も重要な戒め」は何か、と問われると、その返答として、モーセの律法から二つの戒めを引用されました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟(おきて)である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタ22:36-40)。神と隣人を愛しなさいという戒めは、「二重の愛の掟」としても知られています。
隣人愛: 問155→も参照
人が神を愛するのは、神が人類を愛して下さるからです。この神の愛に、応えたいと思うからです。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(一ヨハ4:19)。
284 神を愛しなさい、という戒めが求めていることは何ですか。またそのためにはどうすべきですか。
神を愛することは、人格や行動に反映します。
神を愛しなさいという戒めは、あらゆる点において適用し、そのために最大限に努力すべきです。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マコ12:30)。つまり、ひたむきに神を愛しなさい、ということです。
「隣人を自分のように愛しなさい」(マコ12:31; レビ19:18参照)。
286 隣人を愛しなさいという戒めは、どのようなことを求めていますか。
この戒めが人々に求めていることは、相手に愛をもって接しなさい、ということです。利己主義にはっきりと制限を設けています。
イエスは、善いサマリア人のたとえで(ルカ10:25-37参照)、隣人を愛することは憐(あわ)れむことであり憐れみをもって行動することである、と説明されました。
ここでイエスが言われたことの重要性は、敵さえも愛しなさい、と勧(すす)めておられることからもわかります。
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。」 マタ5: 43-45
善いサマリア人のたとえでは、隣人とは困っているすべての人のことであると明言しています。一方で、助ける側のことを隣人ということもあります。私たちにとっての隣人とは、つながりのあるすべての人といえます。
288 隣人を愛しなさいという戒めについて、イエスが他に言われたことはありますか。
善いサマリア人のたとえのほかに、イエスは、隣人愛に関するそれに続く原則を、いわゆる「黄金律」によって集約されました。
「黄金律」という用語は、マタイによる福音書7章12節の記述に因(ちな)んで、17世紀のヨーロッパでできた造語です。こんにち「黄金律」とは、非キリスト教徒との人間関係においても広く守られている原則です。
「黄金律」は、山上の説教における主の御言葉であると考えられています。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(マタ7:12)。
イエスが使徒たちに教えられたことは、会衆にも当てはまります。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハ13:34-35)。イエスが弟子たちに教えられたこのことは、「黄金律」さえも超越しています。
隣人を愛し、同僚を支え、貧困状態にある人を助けなさいという戒めは、特に会衆の中で体現されているべきです。「[…]ですから、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」(ガラ6:10)。会衆に属すすべての人は、お互いに、心から憐れみ、慈しみ、思いやり、優しさ、忍耐をもって接する義務があります。
291 「互いに愛し合う」ことは、会衆の中にどのようなことをもたらしますか。
「互いに愛し合う」ことによって、兄弟姉妹のありのままの姿を受け入れられるようになります(ロマ15:7参照)。不和になったり、偏見を持ったり、軽蔑したりすることがなくなります。互いに愛し合うことは、会衆の団結を強め、互いの気持ちや状況を理解し合い、助け合おうとする原動力です。
「愛の讃歌」より: 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱(いだ)かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」 一コリ13: 4-7
第一の戒め: わたしはあなたの主なる神である。わたしのほかに神があってはならない。
第二の戒め: あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
第三の戒め: 安息日を覚えて、これを聖とせよ。
第四の戒め: あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
第五の戒め: 殺してはならない。
第六の戒め: 姦淫してはならない。
第七の戒め: 盗んではならない。
第八の戒め: 隣人に関して偽証してはならない。
第九の戒め: 隣人の家を欲してはならない。
第十の戒め: 隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。
「十戒」という表現は、出エジプト記34章28節及び申命記10章4節に書かれている「十の戒め」(デカ・ロゴイ)がその由来です。聖書では、10という戒めの数がはっきり定められている反面、番号が付けられていません。そのため、項目の付番に様々な種類があります。新使徒教会で採用している十戒の付番は、4世紀に制定されたものが使われています。
神は十戒を、シナイ山でモーセを通じて、イスラエルの人々にお与えになりました(出19:20)。十戒は石版に書き記されました。
294 十戒はイスラエルの人々にとってどのような意味がありましたか。
十戒によって、イスラエルの人々がとるべき神への振る舞いや互いの振る舞い方が、規範として定められました。十戒を伝えることは、神がイスラエルの民と交わされた旧約の一部でした。十戒を守ることは義務であり、そうすることによって神からの祝福を受けました。イスラエルの人々は、子供の時から十戒を暗記していました。
こんにちに至るまで、十戒はユダヤ教において大変重要です。
「主は契約を告げ示し、あなたたちが行うべきことを命じられた。それが十戒である。主はそれを二枚の石の板に書き記された。」 申4: 13
295 イエスや使徒たちは、十戒についての論評をしましたか。
はい。イエスは十戒を強固なものとされました。その一部は、より深い意味が与えられ、その適用範囲が広がることによって、はっきりした内容になりました。
最終的に使徒たちは、ある一つの掟(おきて)を破ることが律法全体を犯すことになることを明らかにしました。「律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです」(ヤコ2:10)。
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」
マタ5:21, 22
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」 マタ5: 27-28
神は十戒を通じて、すべての人に語りかけておられます。一人ひとりが自分の行動や生き方について、神への責任があります。
297 国の法律との関係においては、神の戒めをどのように考えるべきですか。
神の戒めは、国家の法律より優先されます。神の戒めに反しているかどうかを総合的に決定する要素は、神の御旨であって、立法府ではありません。
神の戒めに反していることは、すべて罪です。罪によって、人は神の御前で、罪責(ざいせき)として、その責めを負うことになります。罪責の程度は、その罪によって様々です。罪責の程度は、神のみがお決めになります。場合によっては、罪を犯しても、神の御前でほとんどその責めを負わない場合もあります。
罪と罪責との関係: 問230→とその解説を参照
神や隣人への愛を全うすることによって、律法を全うすることができますが(ロマ13:8, 10参照)、それができたのは、イエス・キリストだけでした。
「わたしはあなたの主なる神である。わたしのほかに神があってはならない。」
第一の戒めには、神は万物の主である、という意味があります。万物の創造者である主は、崇(あが)め畏(おそ)れるにふさわしい唯一のお方であります。主の御旨には従わなければなりません。
302 旧約において、第一の戒めにはどのような意味がありますか。
イスラエル周辺の国々は多神教でした。神はこの第一の戒めを通じて、御自分が唯一の神であることを明らかにされました。それゆえ、崇(あが)めるべきお方はこの唯一の神であり、仕えるべきお方も、この唯一の神であります。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申6:4-5)。
一神教: 問53→の解説を参照
『多神教』を意味する英語のポリセイズムは、ギリシア語で「たくさん」を表す「ポリ」と「神」を表す「テオス」が語源です。そこでこの語は、いくつかの神々を崇拝(すうはい)することを表すのに用いられます。イスラエル王ソロモンは、晩年になると、生ける神に背を向け、モアブ人やアンモン人が崇拝した偶像に犠牲を捧げるようになりました(王上11:7-8参照)。
303 他の神々の崇拝(すうはい)を禁じることには、どのような意味がありますか。
いかなるものであれ創造主である神以外を畏敬(いけい)したり崇めたりすることは、罪です。それには生き物や自然現象、物体、あるいは実物か架空かに関係なく、霊体も含みます。
従って偶像、動物をかたどったもの、石、お守り、星座、山、木、火、嵐などを神とみなすことは、第一の戒めに違反することになります。
旧約時代に金の子牛の像を造ってそれを拝むということが行われましたが、これも第一の戒めに背く行為でした。「民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像(ちゅうぞう)を造った。すると彼らは、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ』と言った」(出32:3-4参照)。
304 偶像を造ったり拝んだりするのを禁じていることについて、私たちはどのように理解すべきですか。
出エジプト記20章4-5節で、神がお創りになったものの偶像を造ることを禁じています。「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。」
偶像を造ったりそれを拝んだりするのを禁じていることについては、当時において神々として畏敬崇拝(いけいすうはい)の対象とされたものがここでいう偶像である、という捉(とら)え方をしなければなりません。
305 絵を描いたり写真を撮ったりすることも禁じられていますか。
いいえ。私たちが偶像や彫刻、写真、映画などを作成することは禁じられていません。しかしそのようなものを畏敬崇拝(いけいすうはい)すべきではありません。
306 新約において、第一の戒めにはどのような意味がありますか。
第一の戒めは、神が唯一であることを定めています。この神とは、父、御子、聖霊から成る三位一体の神であります。新約聖書において、第一の戒めは父なる神だけでなく、イエス・キリストや聖霊にも適用されます。
三位一体: 問61→以降を参照
307 こんにちにおいて、第一の戒めにはどのような意味がありますか。
第一の戒めは私たちに、愛をもって神を称(たた)えることを求めています。礼拝、服従、畏敬(いけい)することによって、神を崇(あが)めます。神を愛することによって、神を畏(おそ)れることができます。神を畏れることは、恐怖ではなく、謙虚、愛、神への信頼の表れであります。
イエス・キリストというお方としてこの世においでになった神を、受け入れることが大切です(ヨハ14:9参照)。
いわゆる権力、名誉、財、偶像、あるいは自分自身を神に仕立てて他のすべての者を従わせることは、この戒めに違反します。同様に、自分の欲望や考えに基づいた神の概念を造り上げることも、第一の戒めに反しています。偶像、木、自然現象などを神格化することも違反行為です。それ以外に第一の戒めに反する行為としては、悪魔崇拝(すうはい)、占い、魔術、降霊術、黒魔術があります。
奇術を意味する英語の『マジック』は「魔法」や「錯覚」を意味するギリシア語が語源です。奇術は、ある行為(儀式)や言葉(奇術に関係する決まり文句)を使って、人や動物、時には出来事や現象にまで影響を与えたりコントロールしたりすることでもあります。奇術は悪と結びついている場合がよくあります。
占いとは、将来や将来の出来事が見通せると思い込むことです。不可解な兆候を解釈して、その解釈に基づいて予想します。旧約の時代、占いはイスラエル国民には厳しく禁止されていたにもかかわらず、宮廷では普通に行われていました。
黒魔術は、特殊な方法で将来を占います。黒魔術とは死者と交流して、その死者から未来のことを尋ねるというものです; サム上28:3以降参照。
「御力をわたしたちの神に帰せよ。」 申32: 3