5 神の戒め

308 第二の戒めはどのようなものですか。


「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」

309 第二の戒めは、どういう意味ですか。


第二の戒めは、神とその御名に関係するすべての物事を聖なる状態に維持しなければならない、と警告しています。

310 旧約において、第二の戒めにはどのような意味がありますか。


神はモーセに、燃える草の中で御自身をお示しになりました。その時、御自分の名が「わたしはある」という者だ、と仰せになりました。ここでいう名とは、単に区別のための名称ではありません。この名を担うお方の存在も表しています。この名によって神は、御自分の存在が不変で永遠であることを宣言しておられます。神をどのように体験するのかは、人によって様々ですが、神は不変です。


いかなる手段であれ、神の存在とその威厳を侵害してはいけません。敬虔(けいけん)なユダヤ人は、尊敬の念から、「わたしはある」(ヘブライ語でヤハウェ)という名を決して口にしません。そこで彼らは ― たとえ意図的でなくても ― 神の名を誤用しないようにします。

「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』」 出3: 14

311 新約において、第二の戒めにはどのような意味がありますか。


神を語る時は、愛と尊敬とをもって、自己責任を十分に認識する必要があります。


イエスが弟子たちに祈りを教えられた時、「天におられるわたしたちの父よ」と神に呼びかけなさい、と言われました(マタ6:9参照)。


イエスは「わたしは御名を彼らに知らせました」と言われた時に(ヨハ17:26)、神の本質すなわち愛について説明されました(一ヨハ4:16参照)。

312 こんにちにおいて、第二の戒めにはどのような意味がありますか。


神に関係するすべての物事と神の御名が持つ聖性を維持しなければならない、ということです。このことは生活の中で私たちが考えることや私たちの言動にも反映させなければなりません。


特に私たちはキリスト者として、主イエス・キリストの御名に身を委ねます。父と御子の名を持つキリスト者として、神の御名を聖とする大きな責任があります。

313 神の名をみだりに唱える、とはどういうことですか。


神の御名を乱用することは、重大な冒涜(ぼうとく)行為であり、神を意図的に中傷したり、ばかにしたり、いたずらに非難したりすることになります。神の名を使って呪(のろ)いの言葉を吐いたり、うそをついて神に願い事をしたりすることは、神の名をみだりに唱える行為です。戯言や冗談の中で、不注意に「神」「イエス・キリスト」「聖霊」という言葉を使うのも、第二の戒めに背(そむ)く行為です。

歴史を振り返ると、神の名をみだりに唱えることは、頻繁にありました。私腹を肥やす、戦争を仕掛ける(例:十字軍)、人種を差別する、時には人を虐殺する ― これらすべてを、神の名において、と称して行ったのです。

314 第二の戒めに背(そむ)くと、どういうことになりますか。


第二の戒めは、その違反行為に対して処罰の可能性を含む、ただ一つの戒めです。どのような罰があるのかについては、聖書に書かれておりません。しかし私たちがこの戒めを守るのは、神を愛し、尊敬しているからであって、処罰されることの恐怖によるものであってはなりません。

315 何かを誓約する際に神の名を言葉に出すことは、第二の戒めに違反することになりますか。


イエスは、山上の説教の中で、誓うことを禁止されました。これは、私たちが日常生活の些細(ささい)なことについて誓うことを禁じたものだと考えるべきです。ただし法廷において宣誓をしなければならない時などは、この限りではありません。


神の御前で誠実でなければならないことを表現するために、義務として行う宣誓が行われる際に、証人として神に呼びかけをしなければならない場合は(「神も照覧(しょうらん)あれ。」「神に誓って…」)、全知全能なる神を信じていることを公(おおやけ)に言い広めます。

316 第三の戒めはどのようなものですか。


「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」

317 第三の戒めは、どういう意味ですか。

 

第三の戒めでは、一週間のうち一日を使って、神を崇(あが)め、御言葉に専念することを命じています。キリスト教徒にとって、その日は日曜日です ― 日曜日にイエス・キリストが死から復活されたからです。

318 旧約において、第三の戒めにはどのような意味がありますか。


神は創造の業の七日目に休まれ、その日を清められました。この安息の日は、神の創造の御業に感謝し神を称(たた)えるために、休日として私たちに与えられたものです。


律法がシナイ山で与えられる以前から、神は安息日を、聖としておくべき日として制定しておられました。イスラエルの人々が砂漠を放浪している時、モーセは次のように宣言しました「これは、主が仰せられたことである。明日は休息の日、主の聖なる安息日である。焼くものは焼き、煮るものは煮て、余った分は明日の朝まで蓄えておきなさい」(出16:23)。


安息日になると、イスラエルの人々は仕事を休めて、神に一心不乱に集中することが求められました。この日に、創造主を称え、エジプトによる捕囚(ほしゅう)状態から解放されたことを記念したのです。安息日を全(まっと)うし、個人的な取引や無駄話を慎む人は(イザ58:13-14参照)、祝福を約束されました。

319 新約において、第三の戒めにはどのような意味がありますか。


安息日 ― ユダヤ暦における第七の日 ― を聖とすることは、イスラエルの人々にとって、律法の一部でした。イエスは安息日にユダヤ教の会堂であるシナゴーグへ行かれ、そこで病人を癒(いや)されましたが、イエスのこの行為は一種の労働であり、第三の戒めに違反する、とイスラエルの人々は考えました。それに対して主イエスは、安息日より上の立場におられるお方として、第三の戒めを型通りに守ることよりも、他人に善いことを行うほうが価値が高い、とはっきり仰せになりました。

『シナゴーグ』とはユダヤ教徒の礼拝の場所で、バビロン捕囚(ほしゅう)以来、このシナゴーグに集まって礼拝をします。ここでいう礼拝とは、祈り、聖書朗読、聖書講釈からなる口頭によるものを指します。

「そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」 マコ2: 27

320 キリスト教徒が日曜日を「安息日」として聖とするのはなぜですか。


キリスト教徒が日曜日を「安息日」として聖とするのは、日曜日にイエスが死から復活されたからです。


日曜日がキリスト教徒にとって聖なる日として大切であるということは、使徒言行録20章7節に書かれています「週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは[…]話をした…。」これと同様に、コリントの信徒への手紙一16章2節にも、週の始めの日 ― 日曜日 ― を確保すべき旨(むね)が書かれています。

321 どうすれば、日曜日を聖とすることができますか。


日曜日は、魂にとって安息の日であり祭日であるべきです。何よりも、礼拝の中で神を崇(あが)め、神の御言葉を信仰によって吸収し、罪を赦していただき、聖餐というサクラメントの中でキリストの体と血にふさわしく与(あずか)ることによって、日曜日を聖とします。日曜日を聖とすれば、礼拝のもたらす効果を維持したり増大させたりすることができます。


礼拝に出席しないと、祈りを通じて神や会衆とのつながりを求めることによって日曜日を聖とすることができません。このことは、例えば病人や、体に障がいがある人や、高齢者にもいえることです。


安息日を聖としなさいという戒めは、自分のやっている活動が主に捧げる日が持つ目的とどの程度一致しているかを判断するために、自分の活動を点検しなさい、ということです。

322 第四の戒めはどのようなものですか。


「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」

323 第四の戒めは、どういう意味ですか。


第四の戒めは、すべての世代のすべての人々を対象としており、自分の父母に尊敬と感謝の念を示すことを求めています。報いを約束しているのは、この戒めだけです。

324 旧約において、第四の戒めにはどのような意味がありますか。


一般的なモーセの律法と同様に、第四の戒めも、イスラエルの人々による砂漠の移動と関係しています。彼らは家族の年長者を助けたり保護したりすることによって年長者に敬意を表することが求められていました。「長く生きることができる」という約束は、この世の人生における幸福を表していると考えることができます。


イスラエルでは、この戒めは、高齢者の世話をし、病人である場合は介抱(かいほう)をしなさいという、成人に対する指示とも捉(とら)えられていました。


モーセの律法: 問272→以降を参照

325 新約において、第四の戒めにはどのような意味がありますか。


聖書によれば、十二歳の子供であったイエスは、母マリアと父ヨセフの言うことをよく聞いておられました「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった」(ルカ2:51)。イエスは、御自分が死なれる直前に、母親の世話を使徒ヨハネに託されました。このことからも、イエスの母親への気遣いを図り知ることができます(ヨハ19:27参照)。


使徒パウロが書いた手紙の中には、両親に従うように子供たちに特別に諭(さと)している箇所があります。

326 こんにちにおいて、第四の戒めにはどのような意味がありますか。


年齢に関係なく、子供は親に敬意を表する義務があります。この戒めを具体的にどのように実行するかは、年齢、社会環境、風習によります。


ただし、子に課される服従の義務について、使徒ペトロは次のような制限をかけております「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒5:29)。

「社会環境」とは、生活状況を指します。相続財産、家族や親類、収入や財産、教育、職業、宗教、その他の生活状況です。

327 「長く生きることができる」という約束は、こんにちにおいてはどのように捉えるべきですか。


子供が愛情と感謝をもって親を尊敬し、親のありがたさを思い、親に従い、親を世話するならば、神の祝福を受けることができます。この祝福は基本的に、霊の賜物として具現化します。


旧約の人々による解釈によれば、「長く生きる」とは、神の祝福を表すものでした。新約になると、神の祝福はおもに霊の賜物として示されました。

 

霊の祝福: 問268→を参照

霊の賜物は神からもたらされ、信じる人を「豊か」にします。霊の賜物とは、愛、忍耐、聖霊による喜び、福音の真理を知ること、神の子となること、罪の赦し、サクラメント、神の約束の成就を望むこと、神の約束を共有することです。

328 第四の戒めは、親に対しても何らかの義務を課していますか。


はい。親は、自らの生活のあり方や子供を養育する務めにおいて、大きな責任を伴います。神に喜ばれることを自らが行い、子供に尊敬されるようにしなければいけません。こうした務めを果たせなければ、子供は言うことを聞かないでしょう。


子供が親に従うことによって、親または子供のどちらかが神の戒めに反する場合は、子供の服従義務を正当化するために第四の戒めを行使することはできません。

330 第五の戒めは、どういう意味ですか。


生命は神によって与えられます。生死を支配するのは、神お一人であります。人の生命を絶つ権利は、誰にもありません。

331 旧約において、第五の戒めにはどのような意味がありますか。


ヘブライ語からの逐語訳(ちくごやく)にすると、第五の戒めは「故意に人を殺してはならない」であるため、権限の無い殺人を禁じました。特に、兵役や死刑執行に、この戒めは適用されませんでした。

332 新約において、第五の戒めにはどのような意味がありますか。


イエスにとって、この戒めは文字通りの遵守(じゅんしゅ)にとどまりませんでした。一人ひとりの心のあり方が大切だったのです。


そこで次のように言われました「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(マタ5:21-22)。これについて使徒ヨハネは、ヨハネの手紙一3章15節でこう補足しています「兄弟を憎む者は皆、人殺しです。」

333 こんにちにおいて、第五の戒めには、どのような意味がありますか。


人の生命の始まりと終わりは、神の御手にのみあります。神だけが生死を支配できる主なるお方です。


この戒めは、地上で暴力が横行し多くの人が他人の命にほとんど関心を持たないこんにちにおいても、適用されています。この戒めは、殺人の禁止に加えて、人命の尊重や保護を義務付けています。


第五の戒めの違反は何であれ、罪です。この違反に起因した神の御前における罪責(ざいせき)は様々です(問230→を参照)。

334 堕胎(だたい)は第五の戒めに違反しますか。


はい。胎児の生命を尊重し保護すべきなのは、受胎した瞬間から、生命が神によって与えられたと考えられるからです。

335 第五の戒めは自殺行為にも適用されますか。


はい。神によって与えられた生命を絶つことになるからです。