11.2.1 教父と宗教会議

紀元313年、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(270/288 – 337)は、キリスト教徒に対して、信教の自由を宣言した。380/381年、キリスト教はローマ帝国の国教となった。

 

それまでは多くのキリスト教徒が迫害され命を落とした。ステファノに対する投石を皮切りに迫害の波が押し寄せ、多くの信徒が殉教者 (じゅんきょうしゃ) となった。

 

異邦人とユダヤ人の両方から受けていた迫害からキリストの信仰を守ることと、キリスト教の教義の基本を定めることは、教父たちにとって重要案件であった。初期の世代の教父は「使徒教父」として知られた。使徒教父の中にはローマのクレメンス(? – 100頃)、アンティオキアのイグナティウス(? – 115頃)、スミルナの監督であったポリュカルポス(69頃– 155頃)、ヒエラポリスのパピアス(70 頃– 130/140)がいる。

 

後の世代におけるキリスト教信仰の擁護者 (ようごしゃ) (護教論者)や初代使徒の活動を知る者たちは「教父」として知られている。教父の中にはミラノのアンブロジウス(紀元339 - 397)、ソフォロニウス・エウセビウス・ヒエロニムス(347 - 420)、ヒッポのアウグスティヌス(354 - 430)がいる。教えについて彼らが表明した考え方は、キリスト教の教理に決定的な影響を与えた。

 

アタナシウス(295 - 373)も教父の一人である。彼の神学的影響力により、紀元325年、ニカイア信条<原ニケア信条>が成立した。新使徒教会では現在もこの信条を支持している。

 

キリスト教の信仰において根幹を成 (な) す要目については、数世紀にわたり何度も開かれた宗教会議<公会議>の中で議論された上で、最終決定されたものである。これらの宗教会議は、世俗の支配者による影響を受けて召集されたものであるが、福音書に書かれている内容を ― 客観的に且つ神の御旨に従って ― 反映している。全体的に、キリスト教の基本信条はこれらの宗教会議によって決定している。