2023年7月4日 0:00:00 JST

私たちはどうして神様に奉仕し、どうして統治する努力をしなければならないのか―コンゴ民主共和国を担当するミヒャエル・デップナー教区使徒は、教会の年次標語について問題提起しています。所詮、隣人より多くを手にできる人は誰もいません。それでもこうした努力は大切なのです。

 

 

今年の標語について考えると、統治より奉仕のほうに焦点が当たります。

 

「主と共に統治するとは、この世的な権力ではなく、イエス・キリストのように統治することです。イエス様は奉仕することによって統治されます。すべての人々に完璧に奉仕されます。すると私たちは自分の不完全性や制約を伴った人間性の影響を受けなくなります。善を行うことで祝福となり、はじめて奉仕することになるのです。

 

統治は、完璧に奉仕する方法と考えることができます。言語によっては「市民の僕(しもべ)」というと、職場で働く人から国の大統領や総理大臣に至るまで、すべての人を表します。王族であっても、王は国と国民に奉仕することを誓うのです。

 

何年も前になりますが、僅差で再選され、国民を治めることになったある大統領についての記事を読みました。彼の言葉は非常に心に響きました。「指導者としての仕事は、昼夜を問わず、私を支持しない人々も含め、何百万という人々の命に気を配ることである、ということを、私は常日頃気に掛けています。すべての命は貴重ですから、すべての命が大切なのです。」

 

親に「どの子が一番好きか」などと尋ねることはできません。親は、子供たち一人ひとりに特異性や癖があっても、彼ら一人ひとりのことを知り、一人ひとりに愛情を注ぐようになります。おそらく、頑張り屋はどの子、問題を起こさないのはどの子、と考えることはあるかもしれません。しかしそのことが、子供たちに注ぐ愛や奉仕に影響を及ぼすべきではありません。問題のある子どもにより多くの時間を費やす可能性があります。これは時代を超えた行動である、ということを放蕩(ほうとう)息子の父親は教えています。

 

今は「自分に何の得があるのか」という叫び声に囲まれている時代です。あるいは、

 

  • 「栄光がすべて神様に帰するのであれば、
  • 「隣人より多く得るものが無いならば、
  • 「神様がすべての人を平等に愛されるのであれば、

「どうして奉仕しなければならないのか。統治を熱望する理由がどこにあるのか」こういう声が至る所から聞かれるのが、今という時代です。

 

私自身としては、ただキリストを見習い、その奉仕の仕方やきっかけ―しかも、愛が報われない時でも―を模倣しようと努めることしかありません。キリストは、神様との交わり、そして私が担当する兄弟姉妹の皆さんとの永遠の交わりという最終目標に照準を合わせ続けてくださいました。私にこれ以上、望むことがあるでしょうか。

 

原著: Michael Deppner
https://nac.today/en/158033/1140217


nac.today: New Apostolic Church International

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