1. 8月 2023

彼は次期主使徒に内定していましたが、教会から除名されたのです。ペーター・クーレン前教区使徒は、75年前の8月1日に主使徒補佐及び次期主使徒に就任しました―記念日の一つですが、具体的には何を記念すべきでしょうか。個人的な意見を紹介します。

 

 

1948〔昭和23〕年8月1日、私たちはドイツ、ビーレフェルトにいます。ヨハン・ゴットフリート・ビショフ主使徒が、多くの人々を驚かせる発表をするために祭壇に立ちました。「皆さんも分かっていると思いますが、私はもう若くありません」と、77歳の教会の指導者は言いました。「しばらく前に、使徒たちが私のところにやって来て、将来の後継者としてクーレン使徒を提案しました。」

 

1948年5月21日、使徒学会はフランクフルトで既に後継者を決める秘密投票を行っていました。海外の使徒たちもクーレン使徒を後継者とすることに賛成を表明しました。「私がここにいて働ける間は、彼はまだ私の助手です」と、ビショッフ主使徒はクーレン氏の役割を説明しました。「しかし、もしも病気などで天に召される時が来たら、彼[クーレン氏]がすぐに私の代わりになります。」

 

 

「バプテスマのお告げ」を巡る分裂

2年後、クーレン主使徒補佐は辞任しました。1950年11月25日以降、彼は再びラインラントの教区使徒としてのみ活動しました。しかし、1955年1月23日にこの職務から解任され、同時に新使徒教会から除名されました。

 

その背景には、「自分がこの世にいる間にキリストの再臨が実現する」とのビショフ主使徒の宣言であるいわゆる「バプテスマのお告げ」に対する、異なる見解がありました。ピーター・クーレン氏は他の2人の除名された使徒と共に現在の「使徒集会」をドイツに設立しました。

 

 

非難、疑念、名誉毀損

これが紛れもない事実です。捉え方は色々でしょう。例えば、個人の信念が教義として過度に高められた、という捉え方があるでしょうし、また、協力原則の試みが厳格な階層的な頑固さによって粉砕された、という捉え方や、解釈権を巡る争いがエスカレートし分裂をもたらしたとする捉え方もあります。

 

これらのすべての側面が、対立と衝突を生みました。そして、これが最悪の事態を招きました。極端な考えに走り、派閥を形成したことにより、非難、疑念、中傷につながりました。家族や会衆を分断することになりました。双方で論争と中傷が深刻化し、その後の時期における両教会の亀裂をさらに深めました。

 

 

罪の告白、赦し、和解

しかし、もう一つの出来事もありました。例えば、あらゆる亀裂を越えて手を差し伸べた人々がおり、分裂よりも友情が勝(まさ)っていました。例えば、ヘルマン・エンゲラウフ教区使徒と元主使徒補佐の息子であるヴェルナー・クーレン氏との友情です。ここに和解のプロセスが芽生えつつありましたが、その若芽が踏み潰される危機も何度かありました。

 

歴史的な検証は2007年に失敗しました。なぜなら、過ちを理解して認めることよりも、罪による責任を帰することに主眼が置かれたためです。しかし、2014年に署名された「使徒集会及び新使徒教会との和解に関する声明」では、「和解は、罪を認め、赦しを求める時に成し遂げられる」ことを趣旨としています。「この声明はその目的のために存在します。」

 

この声明文の中で、両教会は「教会指導者と教会員による不適切な行為」及び「分裂後に両教会とそれぞれの教会員との間に生じた緊張」に対して遺憾と謝罪の意を表明しています。そして、新使徒教会は教会からの除名という行為とそれがもたらした結果について「明確なお詫び」を表明しています。

 

 

個人の選択

そうです、8月1日は記念日です。目の前にはどんなイメージが浮かびますか。ビショッフ主使徒の後ろでかなりの距離を置いているクーレン教区使徒の白黒写真でしょうか。それとも、和解の宣言を行う催しで参加者の一人を喜んで抱きしめるクーレンの息子さんのカラー写真でしょうか。

 

記念の仕方は自由です。8月1日に行われた和解の状況を注視する人もいるでしょうし、対立の状況に焦点を当てる人もいるでしょう。そして、昔の非難合戦をするという、2007年の過ちを繰り返す人々もいます。どのような記念の仕方を選ぶにしても、その選択は、あの時から75年後の実際の状況よりも、それを選んだ個人に重きが置かれます。

 

原著: Andreas Rother

https://nac.today/en/157547/1187857→

nac.today: New Apostolic Church International

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