2023年8月8日 19:48:00 JST

新使徒教会の女性執事は教役者だったのか、あるいはそうでなかったのか。この質問に答えるためにはまず、女性執事がそもそもどのような経過できたのかを、歴史的に見なければなりません。私たちと一緒に歴史的証拠を探しましょう。

 

 

新使徒教会が設立してから最初の80年間、女性執事は珍しい存在ではありませんでした。1906〔明治39〕年、ニーハウス主使徒が使徒ヤコブ・コフマンと彼の仲間の教役者たちから誕生日プレゼントとして受け取った写真アルバムが歴史的証拠の一例です。アルバムには150人の教役者の写真が載っていますが、その中で19名が女性執事でした。

 

新使徒教会の会衆たちは、カトリック使徒教会から女性執事職―そして当初は組織構造全体―を引き継いでいました。1834〔天保5〕年には、当時残っていた6人の使徒がこのことについて議論していました。そして、十二使徒の分裂からわずか数ヶ月後の1835年、最初の女性執事が召されたのです。

 

 

貧困層救済の再発見

産業革命によって貧困層が拡大しました。このため、ドイツのプロテスタント諸教会やイギリスの英国国教会の間で、貧しい人々を支援するという意味で、初期のキリスト教の執事職を復活させようという考えが生まれました。これが女子修道会の誕生につながりました。

 

もともとは、公同使徒運動[i]の共同創始者であるヘンリー・ドラモンドが考えていたことでもあります。「女子慈愛会」と呼ばれる団体が貧しい人々の世話をするものでした。後に使徒となるドラモンドの構想は、この女性執事〔カトリック教会における修道女〕たちが、それぞれの修道会の司教〔新使徒教会における牧司〕を補佐し各地域の活動を支援するというものでした。しかし、そのような修道会が誕生することはありませんでした。

 

 

奉仕に携わる女性たち

それでもなお、女性執事は様々な分野で活動の機会が与えられていました。貧しい人々の世話の面で男性助祭を、司牧の面で男性司祭を補佐しました。彼女たちの仕事は、単に教会の男性教役者に付き添うだけではありませんでした。

 

カトリック使徒教会の神学者エルンスト・A・ロシュテウシャーは自身の論文「Belehrung über Frauendienst und das Diakonissen-Amt in der Kirche」(カトリック使徒教会における女性の奉仕と女性執事の職務に関する指導書)の中で、「教会における女性執事と彼女たちによる配慮の活動がなければ、女性に必要な適切な司牧を提供することはできない」と書いています。

 

女性執事の職務は、そのほとんどが教育でした。日曜学校の他にも、例えば、ロンドン中央教会では一時期、女学校があり、読み、書き、算数、裁縫、料理、家事などの授業に従事しました。

 

 

叙任を伴わない教役職

女性執事の召命を受けるためには、一定の条件を満たす必要がありました。「成熟した年齢であり、家庭の義務に妨げられることなく教会に奉仕に献身できる環境にある熟年女性である」ことが必要条件とされていました。

 

女性執事は使徒によってではなく、監督によって任命されました。監督の按手によって、祝福を受け、エルンスト・ロスシュテウシャーの言葉を借りれば「教会の真の務め」を受けたのです。男性執事とは異なり、使徒の祝福による叙任を受けるまでは至りませんでした。また、男性教役者とは異なり、典礼衣裳を着ることも、礼拝中に何かの役割を果たすことも許されませんでした。

 

1863年〔文久3〕以降、新使徒信徒団が設立され始めた時、女性執事に関する限り、当初はすべてが踏襲されていました。ところが、年月が経つにつれて、女性に新しい任務が割り当てられ、制度も変更されました。これについては、このシリーズの次の号で見ていくことにしましょう。

 

 

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この記事は、最近出版された本ティム・グラス著『The Lord's Work: A History of the Catholic Apostolic Church〔主の御業:カトリック使徒教会の歴史〕』、及び新使徒教会の歴史研究家マンフレッド・ヘンケ(Manfred Henke)によるほぼ未発表の資料に基づいている。写真はロンドン・ゴードンスクエアに所在したカトリック使徒教会の女性執事による議事録

 

原著: Andreas Rother

https://nac.today/en/157547/1186052→

nac.today: New Apostolic Church International

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[i] 教理要綱、教理問答集の11章参照。